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【短編 七十二候】霜止出苗(しもやみてなえいづる)

真由まゆは、都会の広告代理店で働く20代女子。

彼女はクリエイティブな仕事に憧れ、地元を離れ、東京へとやってきた。
目指すものは、デザインやコピーライティングを通じて人々の心を動かすこと。
しかし、現実は甘くはなかった。
厳しい競争と締め切りに追われる日々、クリエイティブの名の下に生み出されるものは、しばしば真由が想像していたものとは程遠い、ただの商業的な産物であった。

「これでいいのかな」

真由はいつも自問していた。
自分が本当にやりたいことは何なのか、都会の喧騒の中で失われてしまった何かを、彼女は取り戻そうと必死だった。
自分の内側から湧き出るもの、それを表現することが、本当のクリエイティビティだと信じていたのだが、現実はクライアントの要求に応じて妥協することが多かった。


春の訪れと共に、真由の心は徐々に焦りを感じ始めていた。
月並みな表現だが、都会のコンクリートジャングルの中で、感性が鈍っていく。真由にはそんな風に思えた。

その日も遅くまで打ち合わせがあり、会社を出たのが午後9時。

電車を待つホームで、真由はふといわゆる「駅貼り広告」に目をやる。
初夏の美しい里山を背景にした、鉄道会社が旅行へ行こうといざなうイメージ広告だ。

霜止出苗しもやみてなえいづる。私は。】

まだキャリアは浅いが、その道のプロである真由から見たキャッチコピーの印象は、「まあ、良さげだけどちょっと狙いすぎかな」といったところ。

だが、くやしいけど絶妙だった。
真由の心を故郷に飛ばすには、【私は。】だけあれば十分だった。


その後、仕事から帰ると真由は無意識のうちに地元の村に向かう電車の時刻表を検索していた。
もう何年も帰っていない故郷が、急に恋しくなったのだ。

翌朝、彼女は衝動的に休暇を取って地元へと向かうことにした。
電車に揺られること数時間、目の前に広がる田園風景は、都会での喧騒とは対照的だった。
真由は、深く息を吸い込み、緑の香りを胸いっぱいに感じた。

祖母の家に着くと、祖母は真由を優しく迎え入れてくれた。
家の裏手に広がる田んぼは、ちょうど「霜止出苗しもやみてなえいづる」の季節を迎えている。

全国的に見るとやや早い田植えを終えた田んぼには、小さな苗が風に揺れていた。
その光景は、まるで真由にお帰りなさいと言っているかのように、優しくて美しかった。

幼い頃に祖母から聞かされた言葉を思い出した。「霜止出苗」という言葉。

春の終わり、霜が降りなくなり、苗が安心して育ち始める頃を意味する言葉だった。

田んぼに霜が降りなくなるとき。それは、まさに新たな生命が芽吹く瞬間を象徴していた。

「私にも、何かが芽吹くときが来るのだろうか?」

真由は思った。このまま都会で仕事を続けていて、何かが変わるのだろうか、と。


翌朝の田んぼに見知らぬ女性がいることに、一瞬気づくのが遅れたのは、あまりにもその人が周囲に溶け込んでいたからだ。

農作業を皆と一緒にしながら爽やかに汗をかくその女性に、真由はなぜか目を奪われた。
こんな風に楽しそうに仕事をする人を、真由は久しぶりに見た気がした。

誰なんだろう。

「真由、見てごらん。この苗が伸びる頃には、田んぼはキレイな緑一色になるんだよ。あんたは、この苗たちみたいな凛とした気持ちに戻るまで、いくらでもここにいていいんだからね。ゆっくりしていきな」

祖母の言葉に、真由は心底救われた。いや、これを聴きに来たというのが本音か。
田んぼの苗は、自然のリズムに従い、無理をせず、しかし確実に成長していく。
都会での彼女の生活とは対照的な、そのゆったりとした時間の流れが、真由の心に安らぎをもたらした。


翌日の午後。「こんにちは」
声の方を向くと、あの、田んぼで楽しそうに作業を手伝ってくれていた女性が笑顔でこちらへ歩いてくる。

「あ、あの。田んぼの仕事、ありがとうございます。私、」
「真由さんでしょ。おばあちゃんからよく話は聞いてます。東京でカッコよく働く、自慢の孫だって」
「はい。あ、いやそんなカッコよくなんか全然なくてですね、今回も仕事の$&%<@・・」
動揺する真由に、その女性は先日と同じように爽やかに汗をぬぐいながら言った。
「改めまして。島野美帆っていいます。実は、私も同業者。東京で広告代理店勤務。たまにこうやって、自然に触れて自分をリセットしてるのよ。アタマもスッキリして最高」

故郷で出会った、まさかの同業者。しかも同年代の女性。
美帆さんとは一瞬で打ち解け、東京での仕事の話、将来の事など夜遅くまで話し込んだ。

「最終的にどうなりたいか、なんて全然分かんない。けどね、私には頑張っても頑張っても追い付けない、目標とする先輩がいるんだ。」
美帆はグラスの氷をクルクルしながら言った。

私はどうだろう。

数日間、真由は自分自身と向き合う時間を持つうちに、都会で感じていた焦りや不安が少しずつ薄れていくのを感じていた。
そして彼女は気づいたのだ。
重要なのは、ただクライアントに求められる仕事をすることではなく、自分自身の内なる声を聴くこと、そしてその声を表現することだったのだ。

「霜止出苗」——その言葉は、真由にとって新たな始まりを意味するものだが、美帆という人間に出会ったことで、同じ「東京の広告代理店」という田んぼで切磋琢磨しながら成長していく苗になったような気分にもなれた。

故郷から離れていく電車に揺られながら、真由は一足先に東京に戻った美帆からのメールに、「やっぱりそうか」と納得した。

駅貼り広告の、【霜止出苗。私は。】のコピーは、美帆の作品だったのだ。

なんだか嬉しくなった。同時に、無性に広告の仕事に打ち込みたくなった。

田んぼが緑に染まる頃、真由もまた、都会の中で新たな芽を出し、成長を続けるだろう。
その頃にまた、美帆に会いたい。
真由はスマホをバッグにしまうと、車窓を流れていく初夏の田園風景を見ながら、
「ありがと、おばあちゃん。ありがと、美帆さん」
と小さく呟いた。

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