【短編】 茶柱、遥か彼方
大都市から離れた山奥にある小さな村、楢谷(ならや)。
生産量こそ少ないものの、楢谷村は良質な茶葉の産地だ。
いつしか、楢谷のお茶を淹れた時に立つ「茶柱」は、不思議なパワーを持つとお茶マニアの間でウワサになっていた。
特に、「遥か彼方の茶柱」と呼ばれる茶柱は極めて珍しく、出会った者には幸運が訪れると。
楢谷に住む青年、健一は、村一番の茶農家の息子。
幼い頃から茶畑で働き、祖父から茶の知識を教え込まれてきた彼は、村の伝統を守るべく、日々茶葉を育てることに専念していた。
彼には夢があった。それは、「遥か彼方の茶柱」を目の当たりにし、その不思議な力を体感することだった。
俗にいう「三番茶」の摘み取りシーズンに、健一は特別な茶葉を摘み取った。
それは、見た目には他の茶葉と変わらなかったが、なぜか不思議な魅力を感じた。健一はその茶葉を丁寧に仕上げ、自宅用としてお茶を淹れることにした。
「これが遥か彼方の茶柱を立てる茶葉かもしれない」と期待を胸に、彼は湯呑みを見つめた。
茶漉しをすり抜けた茶葉が湯の中でふわりと舞い、やがて一筋の茶柱が立った。その様子に、健一の心は高鳴った。
その茶柱はまるで何かに導かれるように、ゆっくりと回り始めたのだ。
不思議な光景に息を飲む。
茶柱は次第に加速し、やがて湯呑みの中で激しく回転し始めた。そして、突然の閃光が健一の目の前で弾けた。目を開けると、彼は見知らぬ場所に立っていた。
そこは、青々とした草原が広がり、遠くには壮大な山脈がそびえていた。
目の前には、古びた木造の茶室がひっそりと佇んでいた。健一は驚きながらも茶室の扉を開けると、そこには一人の老人が座っており、静かにお茶を淹れていた。
「お前が来るのを待っていたよ」と老人は穏やかに言った。彼の顔にはどこか見覚えがあった。健一は不安と好奇心が入り混じった感情を抱きながら、老人の前に座った。
「あなたは・・ここはどこですか?」健一は尋ねた。
「ここは、茶柱が導く世界。お前が願った運命の一端だ」と老人は微笑んだ。「遥か彼方の茶柱は、時間と空間を超えて、その者を導く。健一、お前が求めたのはこの場所、そして私との再会だろう?」
健一は混乱しながらも、なぜかその言葉に納得する自分を感じた。「再会?」と彼は問い返した。
老人はゆっくりと頷いた。「そうだ、健一。私は君の祖父だよ。」
驚きとともに、健一は老人の顔をよく見た。確かに、それは彼が幼い頃から慕っていた祖父の面影だった。しかし、祖父は数年前にこの世を去っているはずだった。
「なぜ…ここに…?」健一は呟いた。
「遥か彼方の茶柱は、時を越えた絆を紡ぐものだ」と祖父は優しく語り始めた。「私はここで、健一が来るのを待っていた。お前に伝えるべきことがあるからだ。」
祖父は健一に一杯のお茶を差し出した。「これを飲みなさい。そして、私の言葉を心に刻んでほしい。」
健一は無言で茶を受け取り、口に運んだ。
その瞬間、頭の中に一連の記憶が流れ込んできた。それは、祖父と過ごした幼少期の日々、教えられた楢谷の茶の技術、そして祖父が最後に伝えたかった言葉だった。
「茶柱に出会うと幸運が手に入る、なんていうのはただの言い伝えだ。むしろ逆だよ。もともと幸運を引き寄せる力のある人間は、(遥か彼方の茶柱)と自然と出会う。健一の茶の道は、今始まったばかり。真摯に向き合えば、必ず答えが見つかる。お前には、その力がある。」
健一は涙を浮かべながら頷いた。「ありがとう、おじいちゃん。」
その瞬間、再び閃光が走り、健一は元の台所に戻っていた。湯呑みの中には、もう茶柱はなかったが、彼の心には確かな何かが残されていた。
それからというもの、健一はさらに精進し、楢谷村の誰もが認める茶師となった。
「遥か彼方の茶柱」の話を誰にも話すことはなかったが、いつからか「遥か彼方の茶柱」を立てられるのは彼しかいない、と言われるようになっていた。
しかし彼にとってはそんなことはどうでもよかった。
茶の道における「幸運」「幸せ」とは、何なのか。もはや、それを追求する日々それこそが幸せなのかもしれない。
ある日、健一はふと湯呑みを手に取った。そして、祖父から受け継いだ言葉を思い出し、静かにお茶を淹れた。
あれ以来、二度と茶柱は回転したり光を発するような事はない。
今日も同様だった。
彼は微笑みながら、それを静かに見守り、心の中で祖父に感謝の言葉を捧げた。