〈無駄の積み重ね〉は宝と思う
昔これを知ってたらなぁ、と思うことがよくある。
でも同時に「それはないな」と思っている自分もいる。若い頃に同じ事を知るチャンスがあっても、今と同じ驚きやひらめきを感じるか、というと十中八九、素通りしただろうから。
そこには「無駄」の蓄積こそが気付かせるもの、というある意味 矛盾 があるんだ、いつも。
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嶋津さんのオンラインCafeBarDonna(なんと60回目〜!すごいです、嶋津さん。)で話すことはいつも沢山の刺激をくれる。今日のメンバーはもう、お名前を見ただけで面白そう〜!という人達。(最後に皆さんのnoteへのリンクを貼ります)
今回の話はどこから始まったっけ。
そうだ、わかりやすさの功罪みたいなところから。
で、私の思考エンジンがかかったのは、フクイチさんの「お笑いとそこに対する反応までがセットで提供されている」の言葉から。
スタートになにか(この場合「お笑い」)が出される。そこではボケとツッコミが繰り返され、それを聞いている客の笑い声までがまるっとひとつとして私達に届けられる。「こういうことがあったらこういう反応をするんですよ」のお手本みたいな形で。
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AというものがあったらBと反応するのが正解ですよ。
勉強だけじゃなくそういうものに溢れた世界で私達は生きている。ある意味気楽で、害が無く、するすると世の中を生きて行くコツみたいなものでもある。同時に「考え方の基本」は人類が時間と智慧をふりしぼって辿りついた「大元の基礎を再度勉強しなくても人類の多くがそれでOKとしたことですよ」という安全パイなところもある。
だけど生きるって、人生の醍醐味って、じつはいつもイレギュラーなところにあるよね。
分かり易くAにはB、CにはDもしくはE、・・・というものからふと離れて、「待てよ、AにはBじゃなくてXであってもいいんじゃ?」と思うところからZという思いも寄らない結果や出会いに繋がる。
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さて、最初の「昔これを知ってたらなぁ」に話を戻そう。
いつだって「違う見方」というのが面白い、わけではない。違う見方が面白いのは「ものごとの理解や考え方の基礎ルール」を多くの人が共有している、と言う前提の中で ほんのすこしずらした視点の照らす側面の面白さ ということだと思う。
つまり、そこには「なんで?」ってケチをつけることなく、社会の多くの人が有するものをまず知るという、一見無駄にも思えることを自分のなかに蓄積しないとならないんだ。無駄かもしれない、と思いながら書いてちぎって足許に捨てたノートの切れ端がだんだん積み重なって、それが高さを持ち始めたとき初めて「あれ、今まで気付かなかったけれどこういう考え方はどうしてしないんだろう?」となる。
多くの人が持ちうる常識的なことを踏まえているからこそ、「ああ、なるほど」の視点になる。
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なんの話か、って?
無駄と思われることこそ、私達の人生を彩り、その美しさに気付ける土台なんだ。無駄の積み重ね、ルーチンワークからほんの少しずれたところに、感動させ、笑ったり泣いたり喜んだり怒ったりできる「忘れがたいこと」に辿りつかせてくれるのだ。
そしてそれを時間や労力を省いて同じものを手に入れる・・・ことは多分人類にはないのだとおもう。
結果を求められる世界で私は何にも結果と言われるものを残して来ていない。いや、見方によっては子供が元気で、もうすぐ成人する、とか、遠い昔だけどある程度の資格を取ったとか、仕事としたものでこれだけのプラスを得たとかそんなのはあるかもしれないが、私の中では(おこがましいが)全部単なる幸運だ。
それでもいろんな所を「何も成していない」人として見聞きし歩いてきたからこそ感動の種は沢山持っている。
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〈思っただけで結果がぽん、と手の中に楽に得られる世界〉は、楽しいだろうか。
「気付き」が10代からありまくりな人生は、有意義だろうか。
いや・・・それまでの経験としての無駄・苦労・辛さ・停滞・平穏・・・・全部がこの上ないスパイスとなり出汁となるんだと思う。そして本当に気付かないうちに誰かの「人間としての味」になるんだろう。
無駄の多さが いつかその人の内側から輝く光のもとになる。本人の気付かないところで輝き出す。
そう思うと「昔これを知ってたら」と思えるということは、「私もそこそこの無駄の上に人生を組み立てたんだなぁ」と自画自賛していいことなのかもしれない。
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本日の沢山の気付きを促して下さったオンラインCafeBarDonnaのみなさま。
明夢さん、ごめん、探しちゃったw
その他、これからのオンラインCafeBarDonnaの予定は嶋津さんのこちらから。
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