タイミングで手にする言葉たちが私を導いてくれる。
専門用語にしろ何にしろ、ぱっと理解できない単語はヒトを遠ざけてしまいます。けれど、知ってみると案外「今の自分を救ってくれる言葉」であったりするものです。
・・・ちゃんと知る事が出来るかどうかはタイミング次第なんだけれど。
でね、クリスマスイブの日(日本ではイブ→クリスマス、の時間)まさにタイミングが素敵な言葉やヒトと出会わせてくれました。さらに嶋津さんが「ボンヌ・ソワレ」という素敵な名前をつけてくれました。(ていうか、私も入るんですか?!と驚いてるんですけどw)
2020年のクリスマスイブの夜(こちらは朝)。本当に楽しい時間だったのです。
イギリスからの観世バタコさんも、きっとあの場に共鳴するエネルギーをお持ちのひとだったからご一緒できたんだと思っています。(チャットだけだったけど、次回は一緒にお喋りしましょう)
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すこーし前にタカーシーさんのStand.fmを聞いてたら「懐疑論 Skepticism」の説明回があってこれが分かり易く面白かった。7分くらいなのでぜひ聞いて見てください。(ていうかタカーシーさんの音声配信はどれも、難しいと思われ敬遠されがちなことを とても分かり易く話してくれてます)
懐疑主義・懐疑論
基本的原理・認識に対して、その普遍妥当性、客観性ないし蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。
この一文じゃわからないですよね。笑
だからタカーシーさんの説明がものすごく分かり易いのです。
そして分かり易いからこそ、聴きながら次々疑問も生まれてきます。
(こういう、根源的な思索って実はとてもスキだと気付いた)
世界が本当はどういうものであるか、を知る事ができない、ということを理解した上で 知る努力を続ける。
それって人生でとても大切で、知る努力は人間である特権みたいなものだと思うんですよ。
・・・と考えていた頃に 息子宛に届いた小包の中にこんな一言が書かれたノートブックがありまして
疑うことでしか得られないことがある。(ただし!”疑う”の意味することは「自身が知らない・理解していないと分かった上で探求する」懐疑論、ということです)
懐疑論(主義)(という立場から解釈することで見えてくること)から世界を見ることから初めて得られる智慧、とでもいうのでしょうか。
ま、なんにしても今の時期の自分には はっとするものでした。
私達は何も知らない。何も知らないことを知ったうえで、客観的に事象を観ていく。理解するのに感情はいらない。
大事な言葉はタイミング良くあらわれるもんですよね。
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最初に書きましたが日本時間のクリスマスイブからクリスマスへと日付がまたぎそうな時間に参加させてもらったのは柔らかな哲学講義。
なんというのだろう、本当に今だからこそ(特に私自身に)必要なことがぎゅぎゅぎゅーーーーっと詰まった時間でした。再度、「必要な言葉はちゃんとタイミングを見計らってやってくる」。
そしてこれまでうっすら思っていたことが2つ、確信になりました。
ひとつめ、私はその言葉を使わなかっただけで日常に哲学を探すのがスキだということ。そしてふたつめ、哲学が今の時代にこそ大事だと思っている人は結構いるんだね、ということ。
嶋津さん、素敵な命名をありがとうございます。テンションあがります。哲学しよう、より、ボンヌ・ソワレを覗いてみよう、が良いですね。
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タカーシーさんは哲学するヒトです。学者さんです(とかいうときっと恥ずかしがって否定されるだろうけどやっぱり哲学研究者です。)。そしてこんな優しいお話も書かれます。ミューズ杯のも良かったから、是非読んで欲しい。(2.5秒の沈黙一話目へのリンクはこの記事内にあります)
そして嶋津さん、ダイアローグ・デザイナーと名乗られているけど、こんなに「純粋な人間への興味で 物事をみんなで探求しよう、とプロジェクトをどんどん生み出せる人」というのもなかなかいらっしゃらない。対話がうまれる場そのものを作り出すことも対話のデザインなんだなぁ。ふむふむ。いつもいろんなことを教わっています。
袖振り合うも多生の縁とはよく言ったもの、お二人の話を聞きながら既視感をなんども覚えました。面白いモノだ。
さぁ、次の真夜中の哲学講義「ボンヌ・ソワレ」はいつなのかな?私がたのしみ。(因みに細かい事とか全く決まってないと思うんだけどねw)