埜嵜くん
埜嵜(のざき)くん、という同級生がいた。
幼稚園から小学校2年生まで同じクラスだった男の子。丸まると太って、無口で、赤ら顔の男の子だった。いつも少し汗をかいていた。
よく、中庭側に開いたドア横に置かれたカメの水槽を、しゃがみ込んでじっと見ていた。晴れの日も雨の日も、大きくて丸い背中をみんなに向けて、埜嵜くんは動かないカメよりも動かなかった。
幼稚園の頃はお迎えにお母さんがいらしていたが、背の低いまんまるの人だった。訊かなくても埜嵜くんのお母さんなんだな、とわかった。
埜嵜くんのお母さんはいつも他の親御さんとは少し離れて埜嵜くんを待っていた。ときに他のお母さんたちにぶつかりそうになると、会釈と言うには少々丁寧すぎるくらいに何度も頭を下げるひとだった。帰る方向は私とは逆だったけれど、その親子はいつも大きな身体をきゅっと縮こませて歩いて帰っていた。
あれは小学校一年生のときの運動会の予行演習だったか。男女で手を繫いで入場、というのがあった。担任の先生は汗でずり落ちる眼鏡を抑えながら、少し離れたところから拡声器を使ってゆっくり話した。
「はい、じゃあ隣の人と手を繫いで・・・」
「え、嫌だぁ。せんせーい、あたし、のざきくんと手、つなぎたくないですぅ」
みんなが一斉にその声をあげた女の子の方を見た。隣で埜嵜くんが真っ赤になって俯いていた。
先生は拡声器を足許に置き、かるく砂埃を立てながら早足でやってきた。
「・・・だよなぁ、埜嵜きたねぇもん」
他の男の子の声がした。私は訳も分からず全身がかっと熱くなった。埜嵜くんの足許の乾いた土の上に、汗より大きな雫がぽとん、と落ちた。
「・・・先生、私 埜嵜くんと組みます」
勝手に声が出た。その音を発した喉は熱くなり、胃の下のほうからなにか苦いものがあがってくるようで私はぐっとお腹に力を入れた。
「あら、そう?じゃあそうしましょう。背の順だけど、そこ、入れ替わってね」
先生はちょっとだけ私に笑いかけると、私が移るべき場所を指さして拡声器を置いた場所へ走って戻る。
「手、つなごう?」
両手を合わせて組んだままの埜嵜くんに、右手を出した。こわごわという感じで差し出された埜嵜くんの手をつなぐ瞬間、私の目が彼の手に釘付けになった。4本しかない指。太っちょの埜嵜くんのまぁるい指は、その一瞬でも一本足りないことがわかった。私の背中にぐっと力が入り、思わぬ自分の身体の反応に頭が混乱し、顔が真っ赤になった。差し出した右手の指に力を入れてぐいっと握った。
「・・・いたい」「あ、ごめん」
埜嵜くんの声にますます顔が赤くなった。じわっと全身に汗が噴き出した。じっとり湿っていたのが彼の掌だったのか私のだったのか、もう分からなかった。
昔の事すぎてあまり覚えていないのだが、とにかく彼と同じクラスの時に男女で組んで何かをするときは、私が彼と一緒になった。埜嵜くんは最初こそ両手を組んで固まったようになっていたが、そのうち私が隣に立つと俯きながらも先に手を差し出してくれた。しゃべってはくれなかったが、少し心を開いてくれていることはわかった。
けれど、私はほとんど機械的にそれをしていただけで、彼に話しかけたりしたわけではない。何か言いたそうな彼から視線をわざと外したりもした。
そのうち、埜嵜くんは養護クラスへ移っていった。母にそれを話すと、「あの子、毎月東京の病院に行ってたものねぇ」と言う。それがクラスを移る理由なのか関係無いことなのか私には分からなかったが、「へぇ、そうなんだ」とだけ言った。
同じクラスにずっといたけれど、病院通いで休んでたことなんて、知らなかったし気にしたこともなかった。
何かの時に学校で埜嵜くんのお母さんとすれ違った。埜嵜くんのお母さんは あ、という感じで私を見ると、子供相手にそれは可笑しくないかな、と思うくらい深々と頭を下げた。私はぺこっと、首から上だけで挨拶した。
良い子だとか正義の味方だとか、そんなんじゃなかった。
ただあの時、彼に対して「嫌だ」「きたない」という言葉を発するひとがいたことに、生まれて初めて胃の中身がひっくり返って沸騰するのではないか、というような感情を覚えたから、それだけだった。怒りといっても、あんな吐き気を伴いそうな、私が悔しくて泣きそうになったものは初めてだった。
なのに、4本の指の彼と手を繫ぐとき、私の身体が勝手に硬くなった。目を合わせられなくなった。一瞬、差し出した手を引っ込めようとしたし、なんだったら繫いだ手を離した後、こっそり汗ばんだ手を体操服の裾で拭いたりした。
ばらばらになりそうな自分をひとつにまとめておけなくて、私は彼と話したり目を合わせたりが出来なかったのだ。
今でも、あの埜嵜くんの目を思い出すことがある。彼にとって私はどんな友達だったのだろう。もしかしたら友達以下の最低なひとになっていたのかもしれない。あれから彼に会ったことはないけれど、自分の中に あの2つの相容れない人格があったことは生々しく覚えている。
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