平静の心 Aequanimitas
月曜日ですね。
思いがけないものがクラッカーとトロフィーを貰ってきました。読んで下さってスキを押してくださった皆様、ありがとうございます。
多分、一つの記事で両方頂くのは・・・初めてじゃないかな?びっくりしました。
びっくりの理由はもうひとつ。書いたものが全然エモくもないしココロのなかの澱みたいなのをだばーっとひろげた様なものだったから。(はっきり言って美しくないものをお見せして申し訳なかったです)
時期として、みなさんにもココロをざわつかせる何かがある時だったのでしょうか。
さてと、その後「嫌い」という感情がどうなっているか。
もともと私はココロがざわざわするものを見ないようにしていますが(テレビもないので、ニュースは自分で拾いに行かないとわかりません)、世の中の関心が件のことから少しずつ薄れていくに従って”普段”の状態に大分近くなりました。
出来るだけ日々の自分のこと、家族のことに集中していったらリズムも戻りましたし、もう今はちょっとやそっとではぐらつくこともないです。(かなり寝ましたけどね、エネルギーが必要だったんでしょう)
波立ったものをただじっとやり過ごして行った・・・という、あまりカッコ良いとは言いがたい静め方でした。
タイトルの「平静の心」というのは、カナダ出身の医師・ウィリアム・オスラー博士(翻訳は100歳を越えてもご活躍された日野原重明医師)が医学生のためにおこなった講演集です。専門的なことが分かった方が伝わるものも大きいとは思いますが、私は医学生時代に父に勧められて読んで、ずっと大切にしてきた本でした。(海を越える引っ越しを繰り返していたらなくしてしまったので、そろそろもう一度買いたいと思っています)
医師としてはもちろんいろいろ学ぶ事の多い講演集なのですが、時々私はオスラー医師の「平静の心 Aequanimitas」という言葉をぼーっと考えることがあります。
もともとAequanimitasというのはローマ人の座右の銘で,水(aqua)のように平らであること,それから常に精神を平静に保つことを意味するようになった言葉とされています。もうこの言葉がとても美しいなぁと思うんです。
ただ、実際生きていると簡単なことではない。自分に近しい誰か、家族や子供や親友などに関して 特に誰か第三者が関わってのトラブルの時など。見て見ぬフリは当然Aequanimitasではありません。
波が立った水面を平らかにすること。
まだまだ、私はベストのやり方を見出していません。見出すのが大事なのかどうかもわかっていません。ただ、そういう美しい生き方をしたいなぁといつも願っている。少しでもその状態に近付きたいなぁと、願っているのです。