おもいやりの本質
(先日も書いたことだけど)今年に入って「大腸憩室」がある、と指摘された。最初の「憩室炎」で救急室受診したときの画像診断での話。
簡単にいえば加齢性変化、つまり「トシ」だからだ。年をとったことで大腸の壁が部分的に薄くなり、そこに繰り返し圧がかかることで(ほら、大腸、圧がかかりそうでしょう?)大腸の外側にぽこん、と小さい部屋状に膨らんだ憩室が出来てしまう、と一応言われている。
別にそのままであれば何でも無いのだが、よく緊急手術になることで有名な「急性虫垂炎」、いわゆる「もーちょー」というやつが この憩室部分で時々起こるようになる。そして憩室炎は穴があいたり出血したりしない限りは「炎症が収まるまで様子をみる」(薬は使ったり使わなかったり)というのが原則。
そう、憩室が出来たら 憩室炎とはほぼその後一生のお付き合いとなるのだ。(もちろん、全く炎症を起こさないという人もいる)
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私は消化器外科もやっていた。「も」というのは、外科という分野でさらに細かく専攻が分かれ選んでいくのだけれど、その手前で臨床医を辞めたから。
でも沢山の「消化器」に病気を持つ人達と接してきた。理屈も、どういう風に悪くなりどういう風に付き合うべきものか、というのも、それなりに医者としては理解して説明もしてきた。
だけど、結局は余力のある「健康」にあぐらをかいていたのだと今は思う。偉そうにしたつもりはないし、その時その時で相手の気持ちになる努力はしていた。
でも実際に「長い付き合い」を覚悟する症状が自分に何度も起こると、あのころの自分がとても傲慢に見える。相手の気持ちや本当の所の「悩みにもならないけれど、ずっとそこにある不安」みたいなものは、結局あの時の私は分かったふりしか出来なかった。いや、出来る方法があったかと問われると、全く思いつかないのだが。
長い病気には ある種の諦めと優しくあろうという小さな決意がついてくる。
いつも相手の靴に足をいれるつもりで患者さんに接していたつもりだ。出来なくても(そういう無理だなぁって思うような性格の方も、よくいらっしゃる)やってみようと思っていた。けれど結局、同じではなくても似たような症状を自分のものとして経験しない限り、この言葉にならない深くて広い沼のような気持ちは本当の意味では見えてこない。それが悪いわけではないのだけれど。
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痛みがくるときに息を止めて顔をしかめてしまう、そうなって初めていろんな患者さん達の日常を思った。今ならもっと、近い心の距離で話を聞けただろうに。
今世界を脅かしている感染症を「風邪」と言い捨てるひとに私は強い怒りを禁じ得ないのだが、それは私が目の前で呼吸が出来ない苦しみに絡め取られていくひとを診てきたからだ。風邪、というひとたちはそういう患者さんを見たこともないし、診ることもないだろうし何もしてあげられないときの恐怖感なんか知らないからだ。想像が出来ないのだろう。
それでも、今の私が「ああ、大腸の病気ってこんなに厄介だったんだ」と若かりし頃の自分をちょっと残念に思うみたいに、呼吸が出来なくなってから「ああ、あれをやっておけば」「あれをやらなかったら」なんて思って欲しくない。それは後悔なんてものじゃない、無知だった自分の愚かさを 痛みを伴いながら理解することだから。
想像してみる、自分に起きることとして考えてみる。さらにはそこに「想像してみても、本当のところの一部ももしかしたら分かることはない」という〈分からない領域〉が広がっていることを受け入れる。
病気をしてみて理解がぐんと深まるのはある意味当たり前だ。
病気をしてみる前に 分からないなりに想像するのはどんな人でも大事だと思う。そして想像しても分からない事があるということも知ると謙虚になれる。
それが思い遣りにつながるんじゃないか、優しい社会につながるんじゃないか、そう思っている。
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ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーより、千春さんの作品をお借りしました。これはどこなんでしょう、私も京都の三千院で苔の合間の優しいお地蔵さんの写真、撮ったっけ。。。