生きる希望
駆け込みになっちゃってすみません。お題にそって参加というのを、初めてしてみることにしました。秋さんの#2020年5月の創作 に参加致します。
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2020年2月15日。ポートランド経由で一時帰国をしたのはちょうどシアトルでCOVID-19による最初の死者がでた翌日だった。
機内は中国系の乗客が目立つ。アメリカ・中国間の直行便が中止されていたからだ。到着した成田ではマスクをしている人ばかりだったけれど、それ以外は普通の生活を皆がしていた。
だけど、日本にいる2週間のうちに様相は一変した。
「トイレットペーパー不足」が起き始めていた。そして日ごと、スーパーに出入りするひとの空気が狂気を帯びてきた。
日本での感染経路の追跡ができなくなった。死亡者数がヨーロッパで激増し各国が扉を閉ざし始めた。
パニックというのは、目の前に怪獣が現れて起こるものではなかった。
目に見えないウイルスという敵が現れたとき、人々の間に不安と怒りが黒い影のようにむくむくと膨らんできているのが空気の中に感じられた。その黒いなにかこそがウイルスより怖い敵で、パニックをも引き起こしたものだった。
他人を責め、自分だけはなんとか助かりたい、という気持ちが、真っ黒な見えない洪水のように、世界中であっちからもこっちからも足許へ押し寄せる。
多くの人はそれらをかいくぐるように、背中を丸め足早に用を済ませ自分の平静を、世の中の平穏を続けようとしていた。
かと思えば、どろっとした黒い雰囲気にすでに身体のエネルギーを浸蝕されてしまっている様子のひとも増えてきた。疲れた様子で目の光がにごっている。ある日から真っ青な顔をしながら家族に付き添ってもらい大量の買い出しをしているひとたちを見かけるようになった。
2週間のうちに私の知っていた日本は疑心暗鬼な人達が溢れて、誰かに夜道で刺されるのではないか、と思うような空気が満ちた。笑顔・笑い声というものから他人の目を憚るように小さくなっていった気がする。
天皇誕生日の一般参賀は当然取りやめ。日本国内の動きが、一本ずつ指を折られていくかのようにじわり、じわりとスローダウンしてきた。沢山のイベントが中止され、とうとう日本では休校措置が決まった。
私と娘はいろんな予定を変更して3月3日、帰米することにした。成田空港では不安の表情を隠しきれない諸外国のひとが、8割くらいマスクをしている。世界の景色が、大きく変わってきた。
アメリカに戻った私達は自主的に自己隔離を始めた。万が一日本からウイルスを持ってきていたら・・・と思ったから。
私はnoteを書き続けていた。日本で感じたこと・・・基本的なマスクの使い方から手洗いの仕方、ウイルスの基本的な考え方・・・2月から書いていた医療情報的な記事が増えた。買い物も行かなかったこの時期は、言ってみれば早期の自主的ロックダウンだった。
3月は、今だから思うけれど私もすごく追い詰められていたのだ。自主隔離はかなりストレスだったし、夫の病院にも重症のCOVID-19患者が入り始め、複数の医療関係者がそこから感染した。
そうこうするうち、まったく予想していなかった夫の患者さん(つまり集中治療室に入っていたのだが)がCOVID-19陽性とわかり、病院中が大騒ぎとなった。感染した可能性があるひとを休ませたら病院が動かなくなる、初期の医療崩壊だ。だから「検査はしない、全員1日2回検温しながら働くこと」というお達しが出た。感染症に社会が一時押されていた。
命がきえる覚悟はいつだってしている。けれど、自分がロックダウンの強いストレスの中、夫が感染者に準備なく濃厚接触して自主的に別居することとなったことは堪えた。もし家族の誰かが今発症し、重症化し帰らぬ人になれば誰にも会えないまま旅立つことになる。死んだ後ですら。
今だから言うけれど、あの頃布団の中で一人で泣いたことは1度だけある。泣いたって仕方ない。仕方ないけれど、最悪のこと・・・家族が死に目にも会えない可能性はちょっと受け入れられなかった。ちょうど、高熱ではないが発熱もしてきていたから。
幸い、私達家族の具合の悪さは、全員ごく軽い風邪程度の症状で終わった。
自主的自己隔離から始まり、大分「外出を控える」ことに慣れた頃、アメリカのこの田舎も州知事命令のロックダウンとなった。
やがて日本も外出自粛、そしていつの間にか緊急事態宣言が発令されていた。世界中から活気というロウソクが急速に消えていく。
今振り返ると、本当は自分が動揺していたのがわかる。自分が平静であれるよう、必死に昨日と変わらない今日をすごした。最初は生活に感謝を探していたが、やがてどこを切り取っても感謝しかない毎日だと気付いた。
今あちこちで規制が解かれ始めている。社会が「もう自粛は嫌だ」と言っている。病気はなくならない。
ただ、多くのひとが病気と共存することを受け入れ始めているのだろう。私はそれが正しいと思っている。
怒られそうなことを言うけれど、医療ってまだまだ無力だ。薬や医療資源がなければ何もできることはない。けれど、医療社会だって最善を尽くす状況をつくる智慧と知識は蓄えてきた。
そして有り難いコトに 多くの一般の人達が「ウイルスと安全に共存する」術をこの数ヶ月で学んできていると思う。それが、一番の武器だと私は信じている。
ウイルスに対する治療はまだ完全からは程遠い。でも社会はそれも受け入れながらパニックを越えた。あのとき日本で感じた、それこそ黒くて大きなオバケのような人々の不安と恐怖と攻撃的な気持ちは、ここではもう5月の光と風の中に感じられない。多分日本もそうなんじゃないだろうか。
安全距離を保つ、手を洗う、口や鼻を抑える、そこを守りながら少しずつ経済活動を再開する。
急には感染者も重症者も減らないだろう。けれどきっと、医療の手を借りる前にできることを履行していく社会となっていく。
私達はやっぱり生きて行く。
3月の頃見た、あの真っ黒ななにかに飲み込まれることがなければ、私達は心で手を繋げる。みんなで頑張ろうってきっと言える。そう、一人はみんなのために、みんなは一人のために、の力を信じて。