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楽しいから、としか言えないのが本当に残念なのだけどね。

ここ10日以上、ほぼ毎日のようにサウナを使っている。
なんで?という人はまだ多いと思うが、いや、使っていけばいくほど世のブームになってしまうのも分かる気がする。

「理由を聞きたくなる人」は、残念だけど多分理解出来ない・・・んじゃないかと思う。やってみて体感する以外に「あ、そりゃ好きになるひと多いわ」という気持ちになることはない。私がまさにそれだった。
だってただ単に「楽しい」(きもちいい)というだけ、単に時間を贅沢に使っているというだけ・・・そしてそのどちらも、各個人で価値観が違うことだから「私の感じる理由で、わかるかなぁ?」になってしまう。

まぁ、だからといって言語化しないのはどうよ?とも思うので一応トライしよう。

1)自分を全肯定したかのような、うっとり時間がある
2)火を焚く(薪を燃やす)というクセになる楽しさがある
3)一緒に使っている人とだけ共有できる「感覚」がある

あ・・・終わっちゃった 笑 でもほんと、残念ながら言葉にすると「その程度」なのだ。実際ものすごい容量の「その程度」ではあるのだけど。
ただ「その程度」ってことだから大声で言うほどの事じゃないかな、って・・・

世の「サウナブーム」が長いこと理解出来なかった。あんな熱くて息苦しい、拷問みたいなののなにが楽しいの、と思っていた。みんながそこで汗をかいてるのも正直なところ気持ち悪かった。(お互いを触るわけでもないのにね。)
でもフィンランドに行ったとき何度か試したら、理由もわからず単に「楽しかった」「気持ち良かった」のだ。スタートは貸し切りの場だったし次は見ず知らずの他の宿泊者たちと入る、言ってみれば半公共みたいなところだったので、他人がいるいない、はあまり関係なさそうだ。でもとにかく、その楽しさをまた追体験したい・・・という気持ちだけがどんどん膨らんだ。

ただ日本みたいに公共?で手軽なサウナはこちらになくて、自分でも「まぁそういうのがないなら、次の一時帰国まで待とう」と思っていた。のだが・・・・

「あの楽しいというか、気持ちいい、をまた味わいたい」

楽しさ、気持ちよさを上手く言語化出来ないのに そういう気持ちだけが止められず募っていく。中毒患者みたいに。もうこうなると「なにが楽しかったのか、ちゃんと理解したい」という別方面の興味も加わって止まらない。

そして笑ってしまったのだが、同じことがオットにも起きていたらしい。旅行から戻って2-3週間は 時々思いだしたように「あれ、楽しかったね」くらいの会話をする程度だったが(でも何度もその話をする時点でかなり不思議な状況だ)、二人ともこの中毒的な「もう一度なにが楽しかったのかを味わって、理解したい」という気持ちが「体験する場所がないならココに作るか」になるまで、さほど時間は要らなかった。

かといって高額なサウナをイキナリ購入、とかはさすがにできないから、安価にその体験をできるサウナテントと薪ストーブを買った。そのうち附属のものも沢山入手する羽目になるのだけれど、そこは割愛、というか別に書くと思う。

そんな経緯で、我が家にサウナテントが来た。私は午前中の仕事に「ストーブの灰を片付け、新しい薪をセットする」という15分仕事が加わった。(さらに灰が畑の土を良くするのにいい、ということに気付いたのはホントに数日前だけど、それもそのうち書くかもしれない)

1)自分を全肯定したかのような、ウットリ時間がある
2)火を焚く(薪を燃やす)というクセになる楽しさがある
3)一緒に使っている人とだけ共有できる「感覚」がある

これらを、もっと言語化できたらいいけどなんというか、まだ感覚的すぎてふわふわしているのだ。ふわふわしているけど自分でも言葉にしてそれを掴みたい。だから書いているのだが・・・まだ雲に手を伸ばしているみたいに指の間から逃げていく。

1)は世の中でいう「ととのう」って事なのかもしれないけれど、正直私もオットもその言葉の意味するところがいまだにわからない。どんなのが「ととのう」なの?と考えると無駄に頭を使うので、もうただなにも考えず椅子の上に身体を投げ出す(横になれる椅子を、このために買った・・・)。
幸い、我が家の裏庭はこの18年ほどで周囲の木が大きく育って、目隠しと日除けにもなり、かつ休んでいるときに目に入る緑に心が和らぐ。木々の先が揺れるから風が見えるみたいだ。あー幸せ。
そもそもこの地は、乾燥しているからこその「夏に日陰で風に吹かれる」のが本当に心地いい。でもこれまで、大抵日々の忙しさにそんなことを感じるのは年に1-2回、「今日は外で」と決めて外に出なければならなかった(だって家の中は適度に冷房が効いてて楽だし)。サウナを使うことでその心地よさを積極的に感じに行っているようなものだ。

この土地ならではの空気感と気持ちよさ。20年住んでいるけれど「全身を放り出して」これを味わうのは多分初めてだ。
ついでに、皮膚のうえを風が通るので絶対に「自分の身体」を感じることになる。普段痛いとか調子悪いとかって事がなければ、やっぱりこんなに自分の身体を皮膚から内側へと、広くかつ深さをもって感じていくことはあまりない。なんというか、自分を受容するような時間で有り難さと気持ちよさ、としかいいようのない幸福感に包まれる。

「それはその気候だからでしょ」といわれるかもしれない。でもこのうっとりした感覚は、日本にたくさんいる「サウナー」と呼ばれる人も味わっているに違いない。ということは、本質は「環境」「そこで目に入るもの」とかではないのかも、と思っている。あーーーースミマセヌ、やっぱり上手く言葉にならない。この「全肯定的なウットリ感」が、サウナの一番の楽しさかもしれないのに。

では2)の「火を焚く楽しさ」は・・・これはキャンプで、とか、家に薪ストーブ置いてるよ、なんて人には説明要らないと思う。燃える火、その姿と音、匂い、そして変化していく様子・・・多分人類は長い間これを見つめながら生きてきたのだろうとしかいいようのない、安心感というか癒されるものがある。
あ、もちろんサウナの時はメインが「温度」なので、火そのものを楽しんでいる、というのとはかなり違うけど、それでも薪ストーブを楽しんでいるのは本当だ。ついでにいえばよく野菜や肉をアルミホイルで包んで調理してるし(乗せてるだけ)ね。まぁそれも、「直火を食す」楽しさで。

で、3)のこと・・・今のところ私には相手がオット氏、というのがほとんどだけど、フィンランドの見ず知らずの人たちとも同じ様な感覚があったのは忘れたことがない。なにかを共有する時間でちょっと近付いた風な気持ちがある・・・それが肌から沁みてくる感じだ。

そもそもオットと私は仲はいいほうだと思うが、子供が家から居なくなると良い意味でも悪い意味でも「空気みたいな人」感が増える。それは良い事なんだろうけど、同時に感謝を感じたり伝えたりすることが少なくなる気がする。だって、あんまり普段は空気に感謝しないでしょ、私達。

だけどサウナを使っていると、もちろん「どんな温度」「どの程度ロウリュ(湿度を上げる)するか」「ストーブの様子は今のでいいか、薪を足すか」なんかの小さい会話とコミュニケーションが必要になる。自分勝手にやれないことばかりだし、そのときにかならず「ありがとう」が行き来する。そのことばが、空気だったひとの輪郭を少しずつ取り戻すみたいだ。

皮膚が近くて、毛穴が開いてるからウソがない、みたいに感じるのだろうか。だから他人と入っていてもちょっと仲間意識というか親近感(とは言っても結構薄い感覚だけど)みたいなのがあるんだろうか。ある意味「同じ釜のメシを・・・」に近い感覚かも。他人だけどそれより近い、でも友達や家族みたいな 間違って近過ぎ になることのない距離。そんな感じ。


そういう全部の感覚が・・・火に癒される部分も、掃除しながら前日の楽しかった時間を思いだすなんてことも、次の準備をしながら今日の楽しさを考える部分も含めて、「よくわからないけどとにかく楽しい」になっている気がする。あーごめんなさい、気がする、感じる、ばっかりで。

年末に甥の結婚式がある。九州なのでオットと「ついでに少し旅行してみようか」と話している。で、お互いが選んだ宿候補リストを見て笑った、オットも私も「サウナがあるところ」を選んでる。あー中毒だね。

note内にもたくさんのサウナーがいるのを知っているし、なんだったら「フィンランドサウナ設計の教科書」という、次回の一時帰国時に買いたい本を執筆された方もnoterさんだ。だから今さら私がここでなにを書こうと・・・ではあるんだけど、ただ声を大にしていいたい。

知らないものに分からないからって放置するより、飛び込んでみるというのはほんと、やってみるべきかと思う。一度ちゃんと体験してみたらいろいろ分かることが、世界にはまだたくさんあるよ。

実際、自分がそう(最初はわからない、で世界からないことにしてた)だったから・・・こんな楽しい世界がある(としか言えなくてゴメンナサイ)と知って欲しいなぁ。いや、ホントに。

因みに参考までにですが、私が欲しい本はこちら↓です。


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