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ルールと優しさの間

先日 父がようやく退院しました。化膿性脊椎炎の診断で、3ヵ月強でした。

「なんだ?その病気?」

と思われる方もいらっしゃるかもしれない、まぁ、なかなか診断するのも治すのも時間がかかるので大変な病気なんですが、上手く抗生剤がきいたら治ります。今回は手術もあってそこそこ大変だった・・・のですが、ま、とにかく治って「歩いて」帰宅できました。良かった良かった。

さて、このご時世で「家族が入院したけど会えない」という経験をされている方、多いと思います。先日も奥様がご出産されて「LINE通話で立ち会い出産」という話をきいてびっくり。

我が家も当然ですが父に会えず、話せず。最初の頃は持ち込んだタブレットや携帯電話の充電も 入院準備中 部屋を少し空けたら電源からコンセントが抜かれていたという。一応入院前と入院時に フロアの担当看護師さんにそういう通信機器の持ち込みを確認したらしいのですけどね。「もちろんいいですよ」といわれたけれど、その抜かれたコンセントを見て 付き添いでいった姉は「ああ、昔からのルールだからとダメっていうことか」と諦めたそうです。

まぁ、いろいろあった入院なのですが、文句と愚痴を書くためではないのでね。父も退院しましたし、もう愚痴にならない身として、バックグラウンドが医療という立場もあるからこそ書きます。

病院には本当に色んなルールが患者さん側に課されます。
一見「当たり前だよね」と思いそうですが、その当たり前は 状況をコントロールする立場として、あるいは「病院という特殊環境だから」と諦めて、っていうのがありませんか。

当たり前、まるでそれは「フツウなら」「常識で考えれば」でガチガチに作られた鋼鉄の高い高い壁のよう。

でも このご時世だからこそ最近の私は強く思っています。

相手の心を慮(おもんぱか)る

ということの大切さを。
そしてこの「慮る」というのは、人類が人類として、社会を作りながら生きて行く上で忘れてはいけないこと、と、長い(いや、考えようによっては長くもない?)人類の歴史で何度も学んできたことではないでしょうか。

別の言葉(英語)で言えば「相手の靴の中に自分の足を入れて考える (相手の立場になって考える)put oneself in someone's shoes」です。それは優しさです。

それらのルールは 患者さんに優しいでしょうか?他の手立てはありませんか?


これは実は前から思っています。「院内携帯電話禁止」とか。
院内にwifiをつける必要はない、とか。

ねぇ、時代はもう30年前とは違うんです。
携帯がダメならwifiを提供したって良いじゃないですか。

実際 携帯電話の電波が「医療機器に悪影響がある」というのは 心配しているほどではないらしい、なんていうのは医療従事者の方が良く分かってるんじゃないですか?

ルールだから、と、それを見直すのを忘れてしまうのは人間だからよくあります。法律だってその文言の中の危うさに気付かなかったら変わらず使われ、あるとき誰かが抜けに気付いて悩んだり、酷いと悪用されて初めて気付くなんて場合も。

でもね。ルールありきではないですよね。

叶えたい何かがあって、その方法がルールの制定だったんですよね。


その叶えたい何か、が一番大切なわけです。
ということは、ルールを変えたって「叶えたい何か」を達成できることだって可能なはず。

前例がないとか、そんなルールを変える手間はやっているヒマがないとか。

そうやって無駄にする時間こそ そのままにしておくヒマはないんです。

この世界的「自己隔離」を経験する中で、私達が学んだコトは「心を守ることの大切さ」ではないでしょうか。人間が いかに「心を解放」させることで日常を営んでいたか、ではないでしょうか。

恐怖がルールをつくりルール下にあるひとたちの呼吸を止めてはいけないんです。


そのルールは何のため?
その叶えたい何かは、別のルールで代用出来ない?


私達はこれを忘れちゃいけない。
とりあえず、で作ったルールに「修正不可」だなんて呪いをかけちゃいけない。

アメリカでは大分前から院内の携帯電話はどこでもOKです。
15年前(もしかしたらもっと前)から病院を訪れる人のためのfree wifiを提供しています。

なぜ?

患者さんが、患者さんのご家族が 必要とすることがあるからです。そしてそれは今、ICU(集中治療室)という医療関係者でも限られた人達しか出入り出来ない(もちろん567禍のため)場所でも「患者さんがご家族と顔を合わせる」手段として使われています。患者さんを孤立させれば安全ではない、心を守ることが大切なんです。
(もちろん、できるだけウイルス陽性患者さんに接する時間を短くするために医療関係者がその技術を使いますしそれがスタートでもありますが。)

恐怖からつくられたルールには穴があります。

修正不可だなんて、バカのひとつ覚えのように言い続けないで下さい。
ルールを直せるのは、私達の「慮る優しさ」であり、想像力は大抵のことをちゃんと乗り越えます。

実はこの文章、先日締めきられた #また乾杯しよう  のために下書きしていました。でもどうやら求められているのは路線が違うな、と思ってそのままでした。


私達は「乾杯」の場に色んな気持ちを込め、また色んな想い出を持っています。それは 自粛すればいい、というものではなく、人間の社会活動で必要な場と時間だった、というものを再確認させるモノでした。

また乾杯しよう、それはきっと人類の願いです。乾杯という特別な瞬間は、心に大切な想い出を刻み込む。


ルールが大事ではない、なにを叶えたいのか。

ここを考えたら、きっと私達が大切にし特別に感じてきた「乾杯」の時間は、絶対に取り戻せる。

私はそう思っています。



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