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バレンタインデーのお話ふたつ。

Happy Valentine's Day! なわけでして、日本の皆さんは心がほっこりするようなバレンタインデーをお過ごしだったでしょうか。(こちらはまさにバレンタインデー始まろうというところです)
・・・なんて言ったって、日本ではまだ「ティーン女子」の告白タイムもしくは「世の中総じてありがとうチョコレート」の日なのかもしれないですが、アメリカは結構大人や家族のほんわかするイベントなのです。

So sweetな、バレンタイン前の風景

近所のグローサリーに買い物に行ったときの話。そこは食料品の安さ、おいしさ、そしてアメリカにしては「小さいポーションで売っているので便利」というあたりでこの20年ほどで全米展開になったお店ですが、実はこのお店の売りのひとつが「お花」です。
とても新鮮で、ちょっと家に置きたくなるような小さな鉢や小さなブーケが手頃(というかかなり安く)に手に入るのです。どの店も売り場面積の五分の一〜四分の一程度は生花売り場なのだから、どれくらい売れているか、って推して知るべしな花屋さん。

さて、「野菜と牛乳」みたいな色気のない買い物のために車を停めたら、目の前を20代後半って感じのゴツいヒゲ面男性が歩いてきました。(アメリカ人的にはヒゲは男性っぽさの象徴らしいので結構いる。)

でもその彼、両手いっぱいに溢れんばかりの沢山のバラの花を抱えています。このお店売れ筋の、小さめバラのブーケを沢山。それもちょっと見ている私もうっとりしちゃうような、縁がライムグリーンで徐々に白〜薄いピンクに変化する花弁をもった可憐なバラが中心で、ところどころに柔らかなピンク色したバラの花束も。「ゴツいヒゲ面の、肉体労働してます的な格好」した男性と夢のような色のバラの花々という組み合わせ・・・

そして歩いてくる彼はとても嬉しそうにその抱えた花を見つめているのです。時々くんくん、と腕の中の花束を嗅いで。その匂いを吸い込みながら、とてもとても嬉しそうに、やさしく一人で微笑んでいるのです。

ああ、大好きな人にこの沢山の花を贈りたいんだな。
大好きな人がこの素敵な香りにうっとりする顔を思い浮かべてるんだな。

思わず車から降りるのをやめて彼を見続けてしまいました。この人にこの花々を貰える人は、本当に愛されているんだろうな。素敵な日々をすごしているんだろうな。そう思ってこちらが笑顔になってしまうくらい、とても柔らかな雰囲気を纏ったひとでした。

彼は私のとなりに停めてあった、沢山サビの浮いた古いトラックに乗り込み、助手席にそぅっと丁寧に花束を並べていきました。助手席の足許から窓の高さくらいまで丁寧に積まれた花束たちを、これまたにっこにこの笑顔で見遣るのです。

花を贈りたい、って思ってくれる男性。すてきだなぁ。
相手の幸せな笑顔を思い浮かべられます。もしかしたら相手は親御さんかもしれないけど、それはそれでとんでもなく素敵な風景。
心の中で「ハッピー・バレンタイン」とつぶやいてしまった、見ず知らずの人がくれた幸せな感覚でした。

映画 Past Livesをみた

サラウンドシステムをいれてから夜は夫婦で映画をよくみています。昨日はこれを・・・「Past Lives / 再会」。

In-Yunインーヤン、日本語でいえば袖振り合うも多生の縁、といったところでしょうか。でもどうやら韓国語のそれはもっと意味が深く、過去生で8000回共有したものを持つものが再会し気付くもの、ということなのかもしれません。

やだなぁ。なんか色んな事をおもいだしてしまったわ。
どうしようもなく切なくなります。もしかしたらいわゆる成就する恋とかにならないから言わないだけで、結構みんなこういうのを経験してきているんじゃないでしょうか。

女性はいつだって次の一手を考えることができて(というか考えざるを得なくて)、ロマンチストの男性をすこしだけ置いてけぼりにするのです。別に野心じゃないけど未来を見据えて変化の扉を大きく開け放っていくヒロインは、もしかしたら男性からみたら狡くうつるかもしれません。だけど私はとても共感するのです。選ばなきゃいけない岐路は結構どこにでも転がってて、ああ、私でも同じ事するよ・・・って思ってしまいます。

一方で、幼かった自分のなかに決意に似た恋心を認めた男性は その気持ちに忠実です。自分の育った社会のなかで要求されるものをこなしながら、彼は何度も自分自身を「普通」と表現しています。普通に期待されるものをこなし、普通に仕事をし、普通に大人になっていった。けれど彼の中で「これだけは普通じゃない」と手放せなかったものがあって、それが幼い頃に両親に連れられ移民してしまった彼女のことなのです。何度も彼が「他の選択肢」を選ぼうとしながら選べなかったこと・・・

やっと再開できた彼女はもうすでに結婚しています。そして彼女のユダヤ人の旦那さんは、もちろんその「幼い頃好きだったひと」のことを知っているし、彼が会いに来ると聞いて感じる不安な気持ちと彼女を信じている気持ちとをきちんと言葉にして妻に伝えます。それでも「13時間もかけて君に会いにだけくるひとに、会うなとは言えないよ」と理解をしようとする・・・これも分かりすぎるくらいに切ないのです。

24年経って再会する二人には、確かに共有した時間と文化以上の何かがあって、見ている誰もがその「どこでどうなってもおかしくない」ギリギリさと「でもそれを守らねばいけない」みたいなものを感じます。
そしてそれを見守り?ながら黙って同じバーカウンターで待つ旦那さんに、韓国から来た男性のほうが「僕たちも、In-Yunですよね」と。ホントにそうです。この二人にこそ、多生の縁が積もっているのかもしれないと、それがまた不思議な切なさを生むのです。

どのシーンも言葉にならない沢山の想いが、見ているこちらの胸の中から溢れてきます。静かなのにうるさいほどに気持ちが溢れている映画。

日本では4月頭からの劇場公開らしいですね。ぜひチャンスがあったらみてください。私達の人生にひっそり転がっている、どうしようもなかった気持ちたちが、ねぇ覚えてます?こんなのあったでしょ?って語りかけて来るから。

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たなかともこ@ツレヅレビト
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