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アートに気持ち悪さを引きずり出されて、まだ囚われている。

しばらく前に「全く理解出来なさすぎて終いには笑った」というアーティストのことを書いたのだが、その時の私の表現ですでに"何のことやら"なひとたちが沢山いたんじゃないかと推察する。

で、気付いたら1か月以上あの作品たちのことをずっと考えていた。オソロシや・・・・

さて、アートとはなんぞや、の難しい話が出来る私ではないことを先に書いておく(まぁそれでも多分、一般の人くらいの鑑賞歴とそれらから得た微々たる知識はある)が、一応識者の意見はこんな感じらしい。

美術というのは長い歴史があって、その歴史上の価値を踏まえた上でその価値を保持することが必要です。なのでアートは、1つはその文化的価値を守るタイプのもの、そしてもう1つはその文化を進めるための新しい制作を行うものの2種類あるのかなと思います。

アートとそうじゃないものの本質的な話 より

これを読んだときは「そうだよね!」となった。なったのだが・・・・

件の私を極度に混乱させた作家はstanley brouwn(意図的に大文字を使わない表記にされているようだ)というオランダ出身のアーティスト・・・ええっと、アーティストでいいのかしら?となってしまうんだけど。

例えばこれ。

1976 mixed media h. 96cm x b. 74cm x d. 50cm 1999 schenking

何の変哲もないカード入れに、紙が1000枚入ってて、あるところで開けてある。(私が見たのは、触れないように透明アクリルで覆ってあった)

”1 Step 1:1, 1 M 1:1”は、それぞれ1000枚のインデックスカードが入った2つの箱を開けたテーブルで構成されている。1ステップとは、brouwn自身が基準としている幅(フット)のことで、標準的な計測方法である「1Mメートル」よりもはるかに自然でわかりやすいと彼は感じている。足は、地面や大地と常に接している身体の一部だから、人間と世界をつないでいる。 ”1:1”はフルスケール(訳者注:基準としている長さそのもの)を意味する。brouwnは作品のタイトルで、自分の足幅フットが、公式の基準として認められている非人間的な「メートル」と同等の価値を持っていることを示している。彼のインデックス・カードをもとに、私たちはひとつひとつの表記を「たどる」ことで、brouwnが歩いた距離を自ら「カバー」することができる。この意味で、「1ステップ 1:1、1メートル 1:1」は抽象的かつ具体的である。

まず説明が理解出来ない。もちろん元言語は英語だが、それも分かるようで分からない。大元がオランダ語で、それを英語訳したのだろうか。それにしても・・・(と、展示会場では思っていた。)

*英文は写真を載せていたリンクにあったものだけれど、多分会場でも同じものが表示されていた。ただ、私のみた展示会場では「一切の写真・動画撮影禁止」だったので文章が一致しているかどうかは確実ではないが。

ちなみにここに入っている紙はほぼ白紙(見えている範囲は。くどいがアクリル板で覆ってあったので何が書かれているかを手に取って確認することはできなかった)だった。紙に意味はあるの???1枚の紙の厚さが1mmだったらこの1つの箱にはいった全部で紙がつくる厚みは1mだろうけれど、・・・サイズが書いてあるが、1mには満たない。でも「フルサイズ」だという。
開いているほうが1ステップ?(つまり英語なら1 foot)

? ? ?

こんなのが並んだ壁の、その奥には白紙に線が1本〜数本描かれていて、タイトルはたしか 1m, 1ftみたいなものだった。感覚で引いた1メートルと実際の1mが並べられたり、いろんな人の1ft(1ステップ分、読みはフィートだが単数英語なのでフット)が並べられたり。ああ、絶対的な基準にされているメートルと、感覚的なフットの違いをみせて、その差はどこに起因しているか、を考えさせているんだろうか・・・ と思ったら 今度は大きな、完全な白紙が続く。

? ? ? ?

別の壁にはコピー用紙のような同じ(だった)紙が並べて貼られていて、誰かが踏んだあとがあったりよくわからない線が引かれていたり、くしゃくしゃになったりしている。
「自分が触ることなく、全く知らない誰かが踏んだり踏まなかったり 道を尋ねて相手がどんな線をそこに書くかを保存」したものだとか。自分という表現者の意思を全く汲まない表現なのだそうだ。・・・・え??

? ? ? ? ?


あと2−3種の彼の作品展示があったのだが、どれのどの部分を取っても まず第1に私にはそれが作品であるという認識ができない。そしてそれらを「アート」で括っている展示会場側のポイントが全く分からない。人間の感覚というのは不安定なのにある程度の規則性もまた、併せ持つ、とか言うための作品なのだろうか。いや、そもそも本人が触れていないものは作品なのか?

100歩譲って自分で触れていないが美しい自然の風景は 写真や絵画ではアートになるが、自分で「切り取る」作業をしているではないか。brouwn氏の「触れていない」「意図ものせていない」その紙は、アートか????

再度引用するけれど

美術というのは長い歴史があって、その歴史上の価値を踏まえた上でその価値を保持することが必要です。なのでアートは、1つはその文化的価値を守るタイプのもの、そしてもう1つはその文化を進めるための新しい制作を行うものの2種類あるのかなと思います。

ということは、brouwn氏のは後者?でもこれは、「文化を進める」切り口なのか?


多くのひとが理解するのを諦めたように五分もその部屋に留まらないところで、私は40分以上うろうろし、再度見直し、考え、「あ、これは考えてはいけないのか?」なんて考え、をしていた。そもそもこれはアート?stanley brouwnというひとは何を伝えたかったの?なにを考えていたの?
つるんとした表面にせめてざらつく部分を探そうと必死になったが、何もわからなかったのだ。


あの作品たちを見てから1か月、ずっと頭の片隅において考えていた。あれはどう考えていけばいい作品たちだったのだろう?あまりにも意味も鑑賞ポイントもなさすぎて気になりすぎた。・・・・え?それが彼のねらいだったのか?人間は なにかと意味を探しすぎるぞ、みたいな???

noteを書かれている方達の中にも沢山美術に造詣の深い方達がいらっしゃるので、もしこの私の混乱した文章を偶然に読んだら教えて頂きたい。一体あれはどういう「アート」なのでしょう???

特にコンテンポラリーなものに対しては、分からずとも「すき」「嫌い」くらいは感じるものだと思うのだが、そういうことを考える「ひっかかり」がどこにも、まったくなかったのだ。つるりとしていたのだ。気持ち悪かった、という表現が一番近いかもしれない。


アート、ってなんだろう。
あの気持ち悪さを抱えてしまって以来、自分の中の「アート」は限りなく分かり易いものだけだったのか、と悩んでいる。ただし書きやメッセージ性のあるタイトルがついていない作品であっても、見るものがどのように解釈してもそれらはある程度の振れ幅にしかならないものだろうと思っていたのだ。stanley brouwnの作品は のぺっとした顔をしながら そんな私の思いもよらない「固定観念」に挑戦状を突きつけてきた。

どうかお願いです、誰か 私が私の理解に辿りつくためのヒントください・・・


【2024年5月5日追記】
いくつかお返事noteとか関連noteをいただいたので、載せておきます。どれも興味深いし面白いです。

零音さん、めっちゃ分かり易かった!そしていろいろ腑に落ちました!

これすごい。教科書かき集めて勉強するより勉強になりました。さすが哲学の人・・・アートと哲学は共有する壁がある、でも大部分が同じ宇宙、なのかもな。

これまたトラガラさんらしい「4生成AIと」こんなのどう?どう考える?のやり取り。トラガラさんの知見と 世界中の文献とかを一気にひっぱってくるAIとのやり取りで、しかもそれぞれの個性?もみえて面白いです。

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