人を嫌いだと思いたくない
ここのところ、ざわつきが止まらず自分の機嫌が良くならない。考え事をしているとまさに不機嫌なオバサンになる。
理由は分かっている。嫌いな人を嫌いだと言えないからだ。嫌いと思うのは私の卑怯さだとか自分の考えがカチコチになっているせいだと 自分を責めているからだ。
そして比較的仲良くしているひとがその人に肩入れしていることに、もやもやが消えないからだ。
この数年、もしかしたら10年近く、誰かをきっぱりと「嫌いだ」と思った事がない。いや、あったのかもしれないな、でもそのひとは私の世界から抹消されている。居なかったことにされている。多分若い頃より他人との距離の取り方が上手くなったのもあるのだろう。
私はもともと他人を拒絶することは殆ど無い。考えは違って当然だし、視点の違いを聞くと「そういう立場もあるかぁ」と感心してしまったり面白いと思ったりするほうだ。
けれど一貫して苦手な人、は、言葉を大事にしない人だ。不用意な言葉を出す人も、欺瞞だらけの言葉で笑顔を向ける人も。前者は根本的な考え方がもう反りが合わないし、後者は警戒心で後退ってしまう。
それでも私達が「お客さん」でいる国のことだから、国民が選んだひとのことを嫌いとか言うのは間違っていると思う。今も日本に住む日本人がそのひとを擁護したり批判しているのをみるが「なんであんたがそれを表明しなければいけない?」と思う。
イギリスの首相のことをそんな風に言わないでしょう?
イスラエルの首相のことなんて知らない人が多いでしょう?
なんでニュースなんかで知っているだけのひとに、そこまで肩入れするの?
そんな無責任な発言がその人の周りに溢れているのが腹立たしい。嫌いな人が増えていく。
本当にいつも思うのだ。
正義なんてないのに。真実は人の数だけあるのに。
反論する根拠を示した相手には私は寄り添えるけれど、ただ他方を非難するだけの人は嫌いなんだよ。
昔「あいつが私の家族を殺した」と言えば、証拠も確認されず殺されてしまう時代があった。世界中であったことだ。
その後司法や警察というものが発達した。
それでも我欲で、お金や脅しで自分の言うことを聞かせるひとは絶えていないが、少しずつ「それは間違いだ」とちゃんと言える人もふえてきたのが今だと思う。
証拠が出てきたら、みんなでそれをテーブルに載せて議論したら良い。証拠が出せないもので叫ぶのは、力で抑えようとするひとと一緒だ。
誰かを嫌いだと思うと、そのマイナスのエネルギーは自分に跳ね返る。けれど、どうして嫌いなのか、の根っこが私の価値観に見事に突き刺さっている。
お願いだから、嫌いなんて言ってゴメンナサイ、と言わせるものを見せて欲しい。
私は好き好んでだれかを嫌いになんて、なりたくない。
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