チューニングして聴こえるもの
どういうご縁か、アメリカのユタ州という、ほとんどの日本人には全く知名度のないところに住んで15年を越えてしまった。住めば都、とはいうが、今では一時帰国を終えてこの土地に足を降ろすとホッとしたりするほどだ。沢山の日本とは違う魅力もある。
でも私がここを愛する理由は国立公園(NP)に代表される大陸の自然かもしれないと思っている。その存在感は圧倒的だ。これまで訪れた沢山の場所、その何処(いずこ)でも大陸の大地、その大地に表情を与える水、それらに育まれた緑と大空が織りなす大パノラマが拡がり、自分の小ささに笑いが込み上げる。
絶景というだけではない。街から離れ自然しかない場所で、大地の存在感を、そのエネルギーを、水のしなやかさを、風のダンスを、雲と空と星が織りなす歌声の響きを肌で感じると、今は思い出せないが確かにDNAの上に刻まれた既視のもの、既知のものがうごめく感覚を覚える。
そして面白いことに、NPや国定公園のエリアは日本の神社並みに空気感が違う。言葉にしづらくてもどかしいが、はっきりとした境界線がなくともNPエリアに入ると人は黙りがちになる。厳かな「なにか」が存在して人間を見下ろしているように感じるのだ。
人間はこれまでもそういうものを感じて生きてきたはずだし、八百万の神を疑うのではなくただ「在るもの」と受け入れる日本人には感じ取る素養があると思う。ただ現代の日本では感じ取りにくいだけだ。都会が多いから、人が多いからというだけではない。あくまで個人の感覚だけれど「空気中の水分」が全てを穏やかに包み込んでいる気がする。その点、大陸のドライな空気は密やかな音にならないものをただ真っ直ぐ届ける気がするのだ。
大地
巨岩の側まで行って、直に掌で触れたことがあるだろうか。
もしチャンスがあればそういう岩に触れてみて欲しいと思う。周りに人がいなければなお良いだろう。
私には近付くほどに感じる威圧感が、手を当てた瞬間からさっきまで感じられたものとは全く別のエネルギーとして感じられるのだ。まるでそのエネルギーに抱きかかえられ心に直接あたたかさが流れ込むような感覚になる。
「誰か(なにか)がいる」「誰か(なにか)がみている」
離れて見るとき岩肌はとても男性的で、人間は拒絶されている様に感じる。でも触れるとそれは「母なる大地」という言葉と一緒に心に染み渡るあたたかさとなる。人間は大地とともにあるものだと、自分の中で理屈ではなく理解になっていく。
あくまで私の感じ方だけれど、
岩を含め、大地の言葉は私達のような人間に向けられていない。むしろ、彼らは宇宙(そら)に謳う。
大古の海を支えた時のこと、ゆっくりせり上がり、空を星をじっと見つめた時代のこと。沢山の命を育み送ったこと。少しずつ自らの一部が崩れ、時に大きく陥没し、自らの形が変わる度に出入りする命も変わること。
彼らにとって人間の思惑など宇宙の摂理のなかでの小さなエラーみたいなもの。そんなエラーすら宇宙全てのバランスのなかで在るべき形に落ち着く。「そういうものだ」と謳っている。
風
人間には想像出来ない長い時がつくった渓谷を見ることがある。そこを高台や上空から眺めるとき、大地の声は遠くから響く歌のように微かに密やかにとどくのみだ。
その代わり、耳元でひそひそ、くすくすと語り笑いかけるものがある。その通り過ぎた時を、かつてあった命たちを、変わりゆく大地と変わらぬものたちとを見てきた風だ。とりとめもない時のなかに埋もれた沢山のものを、風は昨日のことも1万年前の事も、まるでさっき起きた事のような顔をして伝えてくる。
風はお喋りだが馴れ合わない。名を付けられることも形を与えられることも嫌う。(ネイティブアメリカンの部族には名前を付けられているけれどね)風はいつも言っている、通り過ぎるものであり、かついつもあるもので、同じであることは無いのだと。そしていつも茶目っ気と悪戯ゴコロを持て余している。
時々 記憶を共有する大地が木々が、細かく震えながら去りし日の色を伝えることもある。でもそれらは微かで、目の前の空の色が一瞬淡く紫がかる程度だ。全部は聞き取れない。尋ねても、応えはない。風が運んでいってしまうのだ。
それでも 一度風の声を受け止めることが出来ると、風は時々戻って来ては一言、二言おいていく。寂しがり屋なのだろう。それを知っている岩たちや木々は、時々一緒に歌を謳ってあげている。
水
こうも乾燥している場所に長くなると、水の気配に敏感になる。水に近付いていくとその存在感に圧倒される。
世界が色鮮やかになる。
生命が溢れる世界になる。
この上なく静かに佇む。
かと思えば、水は流れを成し力強く進む。硬い大地は洗い流され、別の顔が現れる。
濁流となり何物をも寄せ付けない姿も 吸い込まれそうな深さをも見せる。
水と語ったことはない。私には言葉としては分からない。
けれど雨が来るよと風が知らせてくれる。
見えない地下深くの水の存在を 樹木が、雑草たちが教えてくれる。
その後ろには 確かに大きな存在感がいつもある。
雲が堪えきれずほどけていき、乾いた大地に降り注ぐのを見る。懐かしい土埃が湿る匂いと やがて沢山の水が大地を飲み込み覆う匂いが入れ替わる。
風が雨雲を運ぶ。
大地の水はしみ込み、あるいは流れ、別のところへ向かう。
水は命そのものだと知る。命を奪うものだとも知る。
映画「もののけ姫」のシシガミは実は 水そのものなんじゃないかと思っている。
空・宇宙
この地球はなんと小さいのだろう。
空を見上げる度にそう思う。
地平線から反対の地平線まで、360°遮るもののない場所で、白夜の不思議な明るさを見つめる。こんなちいさな自分が呼吸する不思議を考える。
針葉樹の木立が鈴を鳴らすような歌を謳う。ぼんやりと明るい空にそれらは吸い込まれていく。
満天の星に息をのむ。
文字通り降ってきそうな星空は、じっと見つめているとどちらが上でどちらが下か、分からなくなる。目眩がして地面に座り込む。手をついたところから、大地の低い歌声が身体に響く。頭の上からは遠く微かなしゃらしゃらという星からの音。
流れ星がひとつ、またひとつと現れては消える。
そして夜が明ける。
チューニング
この土地の自然はある意味とても分かり易い。あっけらかんとしてマイペースだ。一方で日本の自然は まるで日本人代表のようだ。無口で自己主張が少ない。あるいは、空気の中に浮いている水の粒が、ひとつひとつの歌声を覆い尽くしているのかもしれない。
ただ、よく聞くラジオ番組にチューニングするのにも慣れていけるように、アメリカで自然の声に耳を傾けるようになると その密やかな日本の山の、風の、水の、そして空の声に昔よりもすんなりと周波数を合わせやすくなったと思う。それで微かだけれど、自分の住んでいた土地の性格が見えてきたり、訪れた場所での自然が奏でる、個性が目立つアンサンブルを聴いたりする。
「それをして何になるの」と尋ねられたら・・・・そうだなぁ。正直、その質問をするひとが喜びそうな答えは持っていない。けれど、心が粟立たなくなるし、人生を俯瞰出来るようになったと思う。「今どうでもいいこと」に心煩わされることが激減するから。
・・・というか、そういう短期的・短絡的な「自分にいいこと」探しだなんて、それこそどうでもよくなる、っていうのが自然の声を聴く一番のメリットかもしれない。
ーーーーー*****ーーーーー
スペイン・バレンシアにお住まいの塩梅かもめさんから#noteリレーのバトンを頂きました。#noteリレーではこれまでも素敵な書き手さんたちの作品を読んでいたから、びっくりするやら嬉しいやらガクガクするやら・・・
かもめさんは素敵なレシピと一緒に心に染み渡るようなエッセイを書かれます。そして私はそれを読んで、ほぼ毎回泣いています。こちらに紹介させて頂いたリレー作品も、どうしていまのかもめさんがあんなに温かくて大きくて笑顔をくれる人なのかを知れるものでした。
私へのお題は「自然の声」。なんでこの話題?どこかで話したかしら・・・と思いながら、ちょうど国立公園を訪れるというチャンスも重なったので、私の「自然の声」へのチューニングを書かせていただきました。興味ある方には是非来て頂いて、体感していただきたいなぁって思っています。
で、次のリレー走者ですが、それはもう引き出しの多い、パワフルおじさんこと池松潤さんにお願いしてあります。お題は「少年の心」。
池松さんといえば教養のエチュード賞にだされたこの作品をお読みになった方も多いかと思いますが
私はこの1本が実はとても好きです。池松さんの中心軸が見えそうなお話。
お好きなことにわくわくしながら全力でむかっていっちゃう池松さん。リレー作品がどんなふうに仕上がってくるか、一番楽しみにしているのは私かも知れません。(お忙しいのに引き受けてくださって、ありがとうございます)
そしてsakuさん、とても楽しい企画をありがとうございました。