clubhouseに込める希望
東京国立近代美術館での「眠り展」で印象的だったのは森村泰昌『なにものかへのレクイエム』という映像作品だった。
森村扮する三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地(と思われる場所)で「静聴せよ!」と呼びかける。「隣に森田必勝がいないじゃん・・・」というツッコミはさておき。
三島が市ヶ谷駐屯地で日本人として失われていく魂を嘆いたように、森村は芸術の魂が失われていく日本の状況を憂慮しながら三島さながらに演説をぶつ。
しかしラストではじめて森村の演説を素通りする大衆が描かれるというアイロニカルな作品だ。
1月下旬からclubhouseが爆発的な広がりを見せた。垂れ流しにしているラジオでも毎日取り上げられているほどで、その勢いは中国でも同様のようだ。
ニュースレタープラットフォームであるLobsterr Letter vol.98:The Scene Changesが伝えるところによると、中国では検閲なしで政治に関する議論ができるという点が拡散力の原動と期待になっている。
最もおもしろいと思ったのは、中国のユーザーたちが語る主なトピックのひとつが「政治」であることだ。ソーシャルメディア上の検閲がますます厳しくなるなか、中国のユーザーたちはclubhouseを「政治を語るための新しいパブリックスクエア」として使っている。ある日の夜には、中国、香港、台湾のユーザーたちが、中国のアイデンティティや民主主義について遅くまで語っていたという。
しかし、日本においてclubhouseは政治が議論される場としての役割を期待されているとは言いがたい。事実、自分のタイムラインで政治について語るルームは数えるほどしか見たことがない。
それでも、森村がこめた皮肉のように政治に無関心な日本人を悲観するばかりとも言えない現象がある。
「声真似部屋」と呼ばれるルームがある。マスオさんやサザエさん、はたまたマイメロディ、プーさんなどの声をスピーカー全員が真似る部屋である。そこでは日夜を問わず素人が素人とは思えないクオリティの声真似を披露し合い、時には有名人がリスナーとして、はたまはスピーカーとして顔を覗かせる。
このルームには3つの重要な点が含まれているように思う。
1つ目は開発者が想定していなかった使い方だ。
実際にこの記事でも、想定されている使い方が雑談や議論であったことが言及されている。
Clubhouseはパンデミック前におこなわれていた雑談や、ちょっとした立ち話を代替する存在になった。
しかし、まさか誰がスピーカー全員アニメキャラクターの声を真似る部屋に1500人集まることを予想しただろうか。この現象はさすがにどんなに優秀な起業家であっても予測はできなかっただろう。
ただ声を真似ているだけではない。爆笑するレベルで面白いのだ。そのおもしろさは以下の2点目と3点目によるものだと思う。
2つ目の重要な点はプロと素人との逆転である。
90年代、まだテレビの影響力が今よりも遥かにあった時代、素人いじりの企画が視聴率を稼いでいた。素人をテレビという「公」の場に映し出すことで、その不慣れで滑稽な所作から笑いを誘い出す。そんな番組がいくつも見られた。そしてそれらは00年代を迎えるとともに消えていった。
先日のclubhouseでこんなことがあった。「素人」の集まりであるアナゴさん声真似部屋にリスナーとして参加していたボイスメディア"voicy"代表の緒方憲太郎さんがスピーカー側に招待された。戸惑いながらも堂々とスピーカーとして振る舞う緒方さん。そしてはじまるアナゴさん声真似という無茶振り。
まさか素人による有名人いじりがコンテンツとして成立する時代が来るとは。
「個人が発信していく時代」と言われて久しいが、個人が発信することでプロとの境界線がなくなったどころではない。プロと素人の関係性が逆転してしまったのである。
※ただし現代における「プロ」「素人」という定義について再考の余地があることは補足したい。
3点目に重要だと思うのは予測不可能性だ。
ライターのヨッピーさんが立てたルーム「❤️チャH部屋❤️」はモデレーターがリスナーの「挙手」を通じて90年代のYahooチャットを使ったチャットHを再現しようとする企画であった。
(ちなみに自分自身も与しているが、clubhouseがmen's clubに成り果てているという批判は真っ当であるとも思う。)
そこに彗星の如く現れたのはマルチクリエイターのはましゃかさん。マシンガンのように喋りまくる「地雷系女子」から「なんでそんなことするの?」を連呼するメンヘラ女子、「そうなんだ、きみはどう思っているのかな?」と優しく導いてくれる「お姉さん」など、チャットH部屋経験者しかできない(?)濃厚で繊細なキャラクターを巧みに使い分け、モデレーターであるヨッピーさんとリスナーを爆笑と困惑の渦に巻き込んだ。
先の緒方さんの例も同様だが、clubhouseには誰もが予測できなかった展開が待ち受けていることがある。今、僕がclubhouseをやっているのはそのような予測不可能な事故を観測することが楽しいからだ。
重要な点として3点挙げたが、最終的には3点目の「予測不可能性」に言いたいことすべてが収斂されるように思う。これがSNS黎明期だから起きているものなのか、それともclubhouse特有の現象なのか、まだ断定するのは難しい。
このような「予測不可能」という現象をもとにclubhouseが定着するのか衰退するのかとても注目しています。
なんやかんや堅苦しく書いてしまったけれど、このSNS黎明期にありがちなわちゃわちゃ感が僕としては大好きです。これからもclubhouseを「生温かい」眼差しとともに見守っていきます。