限界貧困の遊び
特に主張もない雑感を書いてみる。
最近読んだ本で「貧困であっても他者に与えることが豊かさ」みたいなことを言っていたのは誰だっけか、エーリッヒフロムかな。
今人生で最もお金がない。とはいえ貯金はあるし、以前と同水準とは言わないまでも働き始めればまあ大丈夫でしょうと思っている。お金がなくても悲観せず、余裕を持って楽しめているのは蓄えたリソースがあるからというだけでもなさそうな気はしている。貯金が10万円切ってから真剣に考えるし、まだまだ削れるところはたくさんある。それに最悪実家に帰ることができる。
だから貧困を語るに値しないし、ましてや「貧困を楽しもう!」とか言えないわけだけれども、それでも人生で2番目にお金がなかった大学生の時のような悲観さはない。でもギリギリの状態であることは認識していて、万が一何かがあった時の自分によるセーフティネットみたいなものはかなり薄氷な気もしている。
ちょうど1年でお金はそこそこあるけど時間がない状態とお金はそこそこないけど時間はたっぷりある状態を体験していてすごいギャップだなと思う。
お金がある時は消費することに駆り立てられていた。部屋の中には物が溢れかえり、調理しない食材を頻繁に腐らせていた。毎日外食&コンビニ。自炊しようにも仕事のストレスで身体が思うように動かない。
まんまと資本主義の意図に従っていたのかもしれない。そしてそれは自分の意志だと疑うこともなかったのは今から思えばバカバカしい。とはいえその溢れかえった物たちに助けられていることも事実。
毎日自分のためだけに自分でやりたいことを決め、自分で決めたにも関わらずやりたくないないと思ったらやりたくなるまで待って。必要な物とあった方がいい物を分別して、必要な物はまず自分で作れないか考えてみる。あった方がいいものはもちろん買わない。
楽しいという理由で掃除したり。本が無限に増えていくのはきっと自分は悪くない。そんな日常が繰り返されていくのも悪くない。
宮台用語でいうと自分は「超越系」6割、「内在系」4割なのだと思う。平穏で平和な日常を求めているにも関わらず、一方で「見えない世界」を見ることにこだわっている。
まとまりがなくなってきたから今日はこれで。どうしても何でもいいから文章を書かないとダメな日があって今日はそんな日だった。
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