命がけの現状維持
父の入院
このたび、父が入院することになりました。
持病もあるし、歳もとしだし、そろそろいつ何があってもおかしくないよな、と日頃からうっすらと覚悟をもって過ごしてきました。
が、いざとなると、え、ちょっと急なんじゃない?!となるものですね。
今現在、父の状態は落ち着いています。
検査の結果、持病に加えて治療が必要なところがあるとのことで、治療をしながら様子を見ていくことになりました。
父は、急にばたーんと倒れたわけではありません。
母からのヘルプを受けて、私が「救急車を呼ぶレベル」と判断し、母の背中を押したことがきっかけでした。
今回の父の一件で、「現状維持バイアスとはこのことか!」と実感したことがあります。
現状維持バイアスとは
現状維持バイアスが働くと、危ないサインが出ていても、たいしたことはないだろうと過小評価したり無視したりしてしまうそうです。
そのせいで、災害が発生してもなかなか避難をせずに逃げ遅れてしまう人は少なくないそうです。
呼吸が苦しくて苦しくて死にそうな思いをしているのに、助かる道を選ばない父。
目の前にどんどん衰弱していっている父がいるのに、助ける道を選ばない母。
まさに、現状維持バイアスが働いていたのだろうと思います。
まだ大丈夫
父は、コロナではなかったものの、風邪をこじらせてなかなか回復できないまま、自宅療養をしていました。
元々肺に持病があり、呼吸がやや困難なうえに咳がおさまらないので、日に日に衰弱していってしまったようでした。
母から様子を聞いて、すぐに病院に行くことをすすめるも、父本人は「かかりつけの病院の予約が2週間後だから」の一点張り。
そうこうしているうちに、いよいよ呼吸が苦しくて苦しくてどうしようもない状態にまで悪化してしまいました。
母からの「どうしよう、病院に連れていってもお父さん歩けないし、車椅子借りたりしないといけないし、この時間はもう病院やってないし…」という電話を受け、「救急車呼ぶレベルだから早く呼んで」と私が言ってようやく救急車を呼んだのでした。
そんな悠長なこと言ってる場合じゃないのに、なぜ「まだ大丈夫」を維持しようとするのか。
日頃から、現実を直視しない傾向のある両親ではありましたが、「命」がかかっている状況でも現実を直視できない、この「病」の深さにショックを受けました。
根深い「病」
私の親の世代は、「自分を大事にする」なんてこととは無縁の時代を生きてきたのだろうと思います。
戦後のモノのない時期から、我慢に我慢を重ね、今よりもっと、弱音を吐かずにがむしゃらに頑張ることを美徳とされてきた時代だったのだと思います。
父も母も、自分の体と腕を頼りに働いてきた職人でしたので、自分が倒れれば「おまんま食い上げ」だったのです。
「まだまだやれる!」
そう思いたい気持ちも、理解できます。
ただ、自分の「命」を無視してまで、守りたいものって、何なのでしょうか。
弱音を吐く自分は「ダメ」なのでしょうか。
助けを求める自分は「負け」なのでしょうか。
嫌だ〜。
怖い〜。
疲れた〜。
苦しい〜。
助けて〜。
休みたい〜。
甘やかして〜。
もうがんばれない〜。
弱音はいつでも、心の危険と体の危険を感知しています。
弱音を封じ込めて無視し続けると、危険を感知するセンサーが鈍ってしまって、だんだん働いてくれなくなってしまいます。
だって、どうせ無視するんでしょ。
だったら、無視できないようにしちゃうからね。
こうして長い時間をかけて抑圧されてきた弱音たちがかたまって「病」となります。
父の肺の持病は、長い時間をかけて抑圧されてきた「弱音が言えなくて生き苦しい(息苦しい)よ〜」がかたまって引き起こされたものなんじゃないかと思っています。
これは、家系に引き継がれた「思い癖」でもあると思います。
家系の「体質」というのは、家系の「思い癖」です。
この流れを断ち切るには、弱音をどんどん吐いて、自分を大事にするという「意志」が必要です。
とても根深いものなので、弱音は「全力で吐く」くらいの思い切りが大切です。
自戒を込めて。