世界をありのままに見る
感情が激しく揺さぶられる時、「私」という意識は、感情(意識エネルギー)に囚われる。
囚われた「私」から見える世界は、感情フィルターのせいで、歪んで見える。
そんな時も、世界は、ありのままに、ただ在り続けている。
世界は、歪んではいない。
囚われた「私」は、世界が歪んで見えていることに、気づかない。
というか、世界は「私」が認識しなければ存在しないので、「私」が認識するように存在する。
その状態に、真の心の平穏はない。
フィルターを取り除くことなく、世界の歪みを嘆き続ける限り、囚われた息苦しさは続く。
そんな時は、俯瞰する意識をとりだしてみる。
別の意識から、その状況を眺めてみる。
感情は、共感されると解放される、という性質を持っている。
閉め切った部屋の窓を開け、空気を入れ替えるように、心の空気も、入れ替えることができる。
誰にでも、感情のパターンはある。
「またこのパターンか」
それが起こるときは、感情が、解放されたがっているときなのかもしれない。
「この感情は、誰の感情ですか?」
感情と、話をしてみる。
共感する。
行き場のなかった感情は、解放される。
「私」が知覚している感情は、確かに「私」の感情ではあるのだけれど。
心の中には、時間や空間の概念はないので、子供の頃の私だったり、過去世の私だったり、宇宙世の私だったり、ということもあるかもしれない。
感情の原因は、「私」以外にはない。
「私」の心の内にこそ、ある。
感情に囚われ、感情と一体になっている「私」は、「私」であって 私 ではない。
真の 私 は、常にありのままに存在している。
らしい。
これを前提に、実践あるのみ。
真の 私 には制限がないので、時間や空間を超えて、何と繋がるかは、何を意図するかにより、自由。
違う道を歩んでいるように見える人たちも、もれなく、同じところに向かっている。
主義主張の違いは、何に囚われているかの違い。
人により、「私」の「 」の部分が違うだけなので、争う必要もない。
心の平穏は、すでに在る。
まずは、それを知ること。
あとは、コツコツ心を解放していくことで、世界は輝きを増していくはず。
ごちゃごちゃしていたものを言語化してまとめたかったので、書いてみました。
ひとまず、スッキリ。
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