ただ散歩する
朝の散歩
朝、ひととおりの家事を終えてから、近所をてくてくと散歩するのが、近頃とても楽しいです。
自分のペースでゆっくりと、目的地も、歩く時間も、歩くコースも決めず、自分の生活エリアを、ただてくてくと気の向くままに散歩する。
たったそれだけのことが、楽しすぎて、外の寒さなどお構いなしで、ついつい今日も出かけてしまうのです。
なぜこんなに楽しいのか、自分でもよくわかりません。
たいていは、自宅を出て、1時間ほどで帰って来られる距離を歩くのですが、長年住んでいるエリアなのに、毎日違う景色に出会えるし、毎日新しい発見があります。
そんなことが、楽しすぎて鼻血出そう、ってほどに、楽しくて仕方がありません。
なぜだ。
ただの散歩がこんなに楽しいなんて。
ただの散歩のやり方
この、ただの散歩の魅力については、うまい具合に文章で表現できる気がしません。
しませんが、書きたいから、書いています。
ただの散歩を楽しむためには、いくつかポイントがありまして。
・ひとりで歩く。
・ながら歩きをしない。
・がんばらない。
・目的を持たない。
何者でもないただの人間として、頭をできるだけ空っぽにして、自分が心地良いと感じられるペースで、ただ歩くのです。
私は、念のためポケットに500円玉とスマホだけ持って、なるべく身軽な感じで出かけます。
近所の見知った道をお決まりのコースで歩くのではなく、その日その時の心の声にしたがって、好きな道を好きなように歩きます。
自分で書いておいて、これの何が楽しいんだ、と思うのですが、頭で考えるのと体験するのとでは、雲泥の差があるのです。
ただの散歩の魅力
散歩をしていると、意外にたくさんの人とすれ違うのですが、私のようなただの散歩をしている人は、あまりいないような気がしています。
まず、目的を持たずに散歩をする人って、あまりいないんじゃないだろうか。
健康のためとか、ダイエットのためとか、気分転換のためとか、犬のためとか、子どものためとか、みなさん、何かしらの目的を持って散歩をしているように見えるのだけれど、そう見えるだけなんだろうか。
自分のためだけに、何の意味もなく、何の目的も持たずに散歩する人って、いるのかな。
いたら、友達になりたいです。
ただの散歩の魅力として一番にあげられることは、「何者でもない自分」でいられる、ということです。
何者でもない自分でいられる時って、実はあまりないような気がしていて。
仕事をしていたり、家族がいたりすれば、当然自分以外の人と関わらなければならないので、どうしても環境や相手に応じた役割の自分になってしまいます。
私の場合で言えば、夫の妻である自分、愛犬の主人である自分、塾の先生の奥さんである自分、などなど。
どれも自分であって、そこに嘘があるわけでも、それが嫌なわけでもないのですが、まったく純粋な自分とは、やっぱり何かが違う気がします。
役割にかまけて置いてきぼりになってしまっている純粋な自分の満たされない想い、みたいなものが、ただの散歩をすることで満たされる。
散歩をして、その時たまたま目に耳に入るものを自由に好きなように感じる、ただそれだけのことが、ものすごく幸福感をもたらしてくれるのです。
何者でもない自分で、目の前のものを自由に感じられれば感じられるほど、世界の豊かさに包まれ、圧倒される。
自由であることを自分自身に心底許されることが、人間にとってなによりの喜びなのかもしれないなあ。
「素直になる」というのは、なんて奥が深いのだろう。