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自分道

声をあげる身体

数年に一度、親知らずが、というか、その周辺の歯茎がひどく痛むことがあります。

数日前にそれがやってきて、5日でおさまる、と直感し、今日で5日目。

今、痛みはほぼ治っています。

直感通りにことが運ぶ、こんな時、時間は過去から現在ではなく、未来から現在へ流れているのだろうな、と思ったりもします。

これで痛みから解放される、と思いきや、今度は胃痛がやってきて、摂生せざるを得ない状況は続いております。

が、これも身体の声。

毎年誕生日を挟んだ前後3ヶ月間くらいは、色々なことが起こります。

ここからまた生きていくための調整期間、のようなものなのか、普段よりちょっと大きめのデトックスだったり、価値観の大きな変化だったりが起こることが多い気がしています。

気をつけているつもりでも、飲食が過ぎているからこそ、こうしてストップをかけてくれているんだよなあ。

どうもすみません、と身体に謝りつつ、極力邪魔しないように、おとなしく過ごしています。

バガボンドに倣う

しかし、ことは、やはり絶妙なタイミングで起こるもので。

ちょっと前に、私の希望もあって、夫が井上雄彦さんの漫画「バガボンド」を全巻大人買いしてくれたので、一気読みしました。

どうしても読みたい、と思いつつも買うのを躊躇っていたら、なぜか夫の方が読みたい!買う!と鼻息を荒くしていたので、流れに委ねました。

宮本武蔵を主人公とした漫画で、原作は吉川英治さんの小説「宮本武蔵」ですが、キャラクターや物語には井上雄彦さんのアレンジが大きく加えられています。

漫画を筆で描くという渋さ。
32巻と35巻は何度もおかわりしました。

私が最近考えていたことと(書いた記事とも)重なるところが多々あり、井上雄彦さんの表現に刺激され、さらに考えを巡らせてウハウハ過ごしていたここ最近です。

私自身、一時期は武道に身を置いていたこともあるので、やっぱり面白い世界だなあと思いながら読みましたが、剣の道だけでなく、どんな道も行き着く先は同じだよなあ、と改めて感じました。

その道に入ったらその道の先達に教えを乞う、というのが一般的だとは思うのですが、私は、それは「近道」というより「寄り道」なんじゃないかな、と思うのです。

「本道」ではない、という意味で。

私にとっての「本道」は、「自分だけの道」だからです。

どの道も行き着く先は「ひとつ」に通じてはいるのだけれど、同じではない。

そういうのが「バガボンド」ではよく描かれていて、武蔵の人生をなぞりながら、自分の来た道を振り返ったり、行く道のことを想像したりしました。

そして、私の今後の人生は、やっぱり、自分の能力、というか、人間に本来備わっている能力を引き出し高める方向へ舵を切りたい、追究していきたい、と思いました。

たぶん、それをしている私は、傍から見たら地味なものに違いありませんが、それでいいし、それがいいのです。

とか言いながら、私の予想に反し、派手なものになったとしても、それはそれでまた良し、なのですが。

武蔵は、村の女性たちに剣を教える際に、こんなことを言いました。

てきとうに振っててください
あ…言い忘れました
腕はないと思って振ってください

バガボンド37巻より

何も教えていないようでも、教えとしては十分な気がします。

こういうものは、教えて教えられるものではなく、自ら掴むものなので。

バガボンドに刺激され、木刀でも振ってみようかと思ったけれど、家の中でやるにはムリがあるし、木刀がなくてもいつでも気軽にできることでないと続かないよなあ、でも、私にも何かそういうものが欲しい。

身体の声をきく

そんなことを思っていたら、ほいっ、と閃きがやってきました。

料理をしていても洗濯物を干していても胃が痛い、呼吸が浅くなってしまう、お腹の力が抜けない、うーん…と困っていた私は、ふと、自分の骨盤が後傾気味なのも原因のひとつだろうと思い、きゅっと骨盤を立ててみました。

すると、胃のところにあった塊がわかりやすくストンと落ち、胃の痛みがなくなったのです。

胃の痛みもないし、呼吸も深くなったし、お腹の力も抜けている…。

頑張ってやっているわけでもないのに、全て解決、かつ、足りないものは何もない。

すごい。

さらに、仙骨、中空、という閃きがあったので、早速試してみました。

イメージとしては、仙骨が天と地の間に何のストレスもなくふわりと浮いている感じ。

あ、ここだ。

力なくふわりと浮いているような感覚で楽に立てる仙骨のあり方がある。

仙骨が本来のあり方であることができたら、丹田に気も満ちて、なんだか色々とすごいことになりそう、と感じました。

空っぽだけど満たされている、そんな空間が人体の要の位置にある。

肝腎要の要というのは、腰ではなく、仙骨か。

空手をやっている時に教わったことがあるような気もするし、どこかで聞いたことがあるような気もするけれど、知識は、ただの知識です。

仙骨がノンストレスで浮く感じを感覚で掴む。

よし、これを私にとっての剣を振ることとしよう。

掴めた、と思っても、またすぐスルリと逃げていく、その感じも面白く、やりだすとついつい夢中になってしまいます。

自由にゆらゆらと身体を揺らしながら、仙骨の感じを探っていくのですが、ほんの5分もやるだけで、身体がずいぶん良い感じになる気がします。

仙骨がノンストレスでふわりと浮き、身体の揺れに合わせてうふふと喜んで揺れている、そんなイメージに浸っているうちに、気が充足してくるのがわかります。

空手の修行時代に、スワイショウというものを教わってやったことがあるのですが、それに似ている感じもするけれど、違うんだよなあ。

当時は、はじめに型を教わっただけに、動作を覚えよう、うまくやろうということに気をとられ過ぎて、身体の中心を感じることもゆるむこともできず、今思えば、面白みを感じることも、効果を感じることもありませんでした。

型なんてものは、無い方が良いんじゃないだろうか。

ただ、身体の声をきけばいいんだよなあ。

そんな風に思う私は、〇〇流〇〇派などを名乗る派閥に属することにはてんで向きませんから、時々は寄り道しながらも、ひとりでうふふと道を追究していくのが性に合っているし、楽しいのです。

どの道も行き着く先は「ひとつ」だからこそ、自分の心の声をきく、身体の声をきく、ということに、もっと自信を持っていいような気がします。

武蔵が憧れた剣豪、伊藤一刀斎が言ったセリフに、こんなものがありました。

剣に生きると決めたなら
正しいかどうかなどどうだっていい
感じるべきは
楽しいかどうかだ

バガボンド32巻より

武蔵とは目指すところが違っているように見えるのだけれど、この伊藤一刀斎のことも、私は好きなのです。

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