想像にはめるだけ
我が家に雨水タンクがやってきた
本日、家の裏側に、雨水タンクを設置しました。
先日ネットで注文して、昨日届いたばかりなのですが、もう設置できちゃった!と自分でも驚いています。
今日のうちに土台のブロックを買って、設置はゆっくりやればいいや、なんて思っていたのですが、気づいたら身体が勝手に動いていて、昼飯前には設置完了していました。
自分がこわい。
土台のブロックは、そこそこ重さがあるので夫が運ぶのを手伝ってくれた(というか全部運んでくれた)のですが、何も言ってないのに率先して動いてくれて、ものすごく助かりました。
ありがとう。
「成る」ことは決まっていた
ことがスムーズに運びすぎて、不思議。
でも、全然不思議じゃない。
こういうことが、よくあります。
こういう感覚を味わうたび、お腹の芯のあたりが、ふるふるっと喜びに震えるような感じがします。
これ、なんですか?
頭の中で想像したことを現実化させようとするとき、想像が明確であればあるほど、なんというか、「そこにはめるだけ」で「成る」、という感覚があります。
想像に、現実を、はめるだけ。
実際は、肉体を動かしてはいるのですが、「ない現実」から「ある現実」へパッと移動した、みたいな感じがします。
自分の肉体が、それなりのスピードでしか動けないのがもどかしいのです。
意識はもう「そこ」にあるのに、って感じで。
だから、当然自分はそれを成せる。
そんな感覚です。
想像したときにはすでに
極論を言えば、「明確に想像できることは、すでにできている」のだと思います。
「信じている」からできるのだ、ということでもなく、「だってそうなんだもん」という感覚。
「信じる」という言葉を使うときは、やはりどこかに「疑い」があるのだと思います。
「疑い」などの心の波が、ほんの少しも立たない「静寂」に、とてつもないエネルギーと可能性を感じます。
雨水タンクの設置に、こんなことを感じるなんて。
日常のなにげないひとコマの中で、ふわーっと感じた感覚をとらえて、言葉にしておきたいと思ったので、ここに書きとめておきます。
追記
雨水タンクを設置した日の夜、雨が降りました。
朝、わくわくしながらタンクの中をのぞいてみたら、きれいな水が想像以上にたまっていて感動しました。
早速夫がうきうきと、家の植物たちに雨水をあげていました。
私より、雨水タンクの設置を喜んでいるようです。
雨が降るのが楽しみになりました。
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