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一年の節目に

おかげさまで

今日で、noteを始めてまるっと一年になりました。

こちらこそよろしくお願いします

数日前にふと、そういえばいつ始めたんだっけ、と思って自分の記事を遡ってみたら、あと数日でまるっと一年経つじゃん、と気づきました。

長かったような、短かったような。

すぐに飽きてぽいっとしてしまいがちな私が、なぜか、noteは飽きずに続いています。

考えてみたら、続けよう、という気もないのですが、不思議なものです。

書きたい衝動に突き動かされれば書くし、書きたい衝動に突き動かされなかったら書かない。

そんな風に、自分のペースでふらふらとてきとうにやっていられるのが、性に合っているのだろうと思います。

書きたい衝動にまかせて記事を書いた後は、とりあえず自分の中が空っぽになるので、もうこれでネタも尽きたかもなあ、なんて思うのですが、しばらくしたら、またひょっこり書きたい衝動はやってくるので、なんだかんだで今日まで続いています。

内なる声

そんな私がなぜ、noteを始めようと思ったのか。

変な話ですが、noteの存在を知るずいぶん前から、私は、なぜか無性に文章を書きたい気がしていました。

文章を書きたい、ではなく、文章を書きたい気がする、です。

数年前にnoteの存在を知り、面白い世界があるな、とは思ったものの、その時は、そこで自分が文章を書くなんてことは考えもしませんでした。

それが、いつからか、noteで書け、noteで書け、という内なる声が聴こえるようになり、次第に大きくなるその声を、だんだん無視できなくなってきました。

そして、よしわかった、やってみよう、とnoteのアカウントを作ってみたのが、ちょうど一年前です。

自分に何ができるのかはわからないけど、何かできることがあるような気がしていました。

そして、noteで書いていくうちに、また、内なる声が聴こえてきました。

凡人として、変化(進化)していく過程を書き、示していけ。

たぶん、けもの道みたいなものなんだと思います。

この声の言う通りにしよう、という意志は、実は私にはありません。

ですが、私が自然にやってしまうこと、やりたいようにやっていることが、結果的に、この声の言うことに沿っているような気がするのです。

自分が意図したわけでもないのに、気づいたらそうなっていた。

こういうのが、もしかしたら、与えられた役割を生きる、ということなのかもしれないなあと、近頃思います。

今後どうなっていくのかはわかりませんが、大きな意志にまかせておけば、なるようになるのだろうと思うので、変わらずマイペースでやっていこうと思います。

世界は響き合っている

話は変わりますが、半月ほど前、私の大好きなアーティストのひとりである、KANさんが亡くなりました。

KANさんの突然の訃報に触れ、自分でも驚くほどの寂しさに襲われました。

それほどまでに、深く、無自覚に、KANさんの存在が、私の中に浸透していたようです。

その魅力は多くの方が語られているし、私はここでは語りませんが、一曲だけ、紹介させていただきたい曲があります。

私には、この曲は、noteの世界や、この世界の美しさを、そのまま表しているように思えるのです。

それぞれに違う人生(メロディ)が、ある時期、ある時、ある瞬間に、ふっと重なり、響き合うことがあります。

良く見えることも悪く見えることもありますが、それって、奇跡だよなあ、と思うのです。

秦基博さんの「カサナル」という曲。
KANさんの「キセキ」という曲。

それぞれに違う曲ですが、同時に歌うと、こうなります。

KANちゃん、あなたって人は、天才すぎるよ。

感謝

というわけで、いつも私の記事を読んでスキをくださるみなさま、こそっと訪れて読んでくださるみなさま、たまたま見つけて読んでくださったみなさま、どうもありがとうございます。

あなたと私は、カサナルキセキです。

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