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この座標で生きる

標準装備の検索エンジン

以前、漫画「バガボンド」を一気読みしたことについて書きました。

読み終わった後も心の片隅に居座っていた言葉があり、たびたび引っ張り出しては、どういうことなんだろう、と考えていました。

牢の中の武蔵に沢庵和尚が語る場面、その言葉の中に、こんなものがありました。

それぞれの生きる道は
天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ

バガボンド29巻より

決められているのに自由なんて、矛盾してるじゃないか。

漫画の中で描かれたひとつの創作表現に過ぎない、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、なぜかそれでは済ませられず、妙に私の心を捉えて離さなかったのです。

これはきっと、真理なのだろう。

そう感じていたのだと思います。

そのことについてたびたび考えながら過ごしていたある日、ふと、武術研究家の甲野善紀さんのことが頭に浮かびました。

甲野善紀さんの著書が読みたくなって図書館へ行ってみるも、借りられる本が一冊もない。

仕方がないのでその足で本屋へ寄ってみると、三冊だけ見つかりました。

その中から、パッと目についた一冊を手にとり表紙をめくってみると、折り返しのところに、こう書いてありました。

運命は完璧に決まっていて、
同時に完璧に自由である 一 甲野

古の武術に学ぶ無意識のちから / 甲野善紀・前野隆司 著

マジか。

前々から思ってはいたけれど、人間の検索エンジンって、ほんとすごいな。

甲野善紀さんは21歳の時、これがこの世界の構造に違いないと、どうしようもないほどそう強く確信してしまったのだそうで、以来ずっと、この問題と向き合う道を歩んでおられるようです。

「バガボンド」の作者である井上雄彦さんがどんなものからインスピレーションを得て作品を描かれたのか、甲野善紀さんとの間にどんな繋がりがあるのか、そもそも繋がりがあるのかないのかもわかりませんが、こうしてトントンと点と点が繋がっていくと、なんかもう笑っちゃいます。

運命は完璧に決まっていて
同時に完璧に自由である

どこまで行っても、お釈迦さまの掌の上。

囚われているから自由ではない、と捉えるのか。
守られているから自由だ、と捉えるのか。

そこに自分の自由意思はないと思えばないし、あると思えばある。

言葉は正反対のことを言っているように聞こえるけれど、状況を外から見たら、見え方は同じように見えます。

矛盾しているようで、していない。

真実はどうなのか、それは私にはわからないけれど、真実はひとつでなくたっていいし、どちらであったっていいように思います。

どうあるか、それは自分の心で決めていいし、決めたら決まる、と、いつからか、そう思うようになりました。

時代の変化とともに、これまで常識とされてきたことがガラッと覆ることなんて、よくある話です。

事実、現代では、ちょんまげ姿で歩いている人を見かけることはありませんし。

その時代時代で、常識や真実とされることは、コロコロといとも簡単に変わっていくのに、なぜ私たちはそうした「それっぽいもの」にこうも踊らされてしまうのか。

例えば、宇宙についての新たな発見があった、とNASAが発表したとして。

私は、面白いなあと思いながらも、それって本当かな、と考えてしまうのです。

それを発見した人(たち)のことも知らないし、どういう経緯があって自信を持ってそう言えるのかもわからないし、そもそもNASA自体が信頼に足る組織なのかどうかもわからないし。

私という人間からは遠すぎる話で、それが世界にとっての真実だとしても、私にとっての真実にはなれない、というのが正直なところです。

私には宇宙についての専門的な知識などは何もないけれど、それは「真実」ではなく、今は時代にそう「認識」されているからそれが出現されているだけだろう、と思ったりするのです。

言い方を変えれば、それらはそれを観る人の心が決めているし、決められる、と思っているのです。

今は、これについて知りたい、悩みを解決してほしい、不安を和らげてほしい、どうやって生きていけばいいのか教えてほしい、などなど、どんなことでもちょっと検索すれば、それっぽい答えはすぐに教えてもらえる時代です。

でも、本当に、それは自分に当てはめて良い答えなのだろうか。

その検索エンジンは、その情報は、その情報源は、信頼に足るものなのだろうか。

私は、人間に元々備わっている検索エンジンは、Googleをも遥かに凌ぐものだと思っています。

だからこそ、他所にその身を預けるのは、もったいないなと思うのです。

問え、自分の心に。
呼びかけろ、自分の心に。

生きる面白みを感じられるのは、誰かが作った枠を抜け出し、自分の心の声に耳を傾けはじめてからだ、と私は思うのです。

続・仙骨

先に貼り付けた記事を書いた頃から、私は仙骨に注目しているのですが。

ゆらゆらと仙骨が浮く感覚を探る動きが発展していき、心と身体が求めるままに自由に舞う、というのも日常に取り入れるようになりました。

動かしたい関節を動かし、伸ばしたい筋肉を伸ばし、気持ち良いと感じるリズムやスピードで、好きなように舞う、これがめちゃくちゃ気持ちいいのです。

見る人は誰もいないので、本当に好きなようにめちゃくちゃに舞っているのですが、心と身体が解放されて、うわーい!となり、寝る前に舞うと上機嫌で眠りにつけます。

仙骨と意識を繋ぐことに慣れてくると、人間に元々備わっている能力(たぶん)が少しずつ開発されてくる(戻ってくる)のを感じます。

肚で考える感覚に目覚めたり、肚の力は場の掌握力なのかと感じたり、肚の平和感がそのまま自分の周辺の平和感なのかと感じたり、泳いでても息が上がりにくいし、足をつかずにバランスボールにずっと座っていられるし、なんだか色々面白い発見があります。

発見があったところでどうなるというものでもないし、ひとりで勝手にあれこれして、ひとりで勝手に喜んでいるだけなのですが、「ただやる」ということに、私は今、夢中なのです。

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