A Late Quartet『25年目の弦楽四重奏』クラッシック音楽と生きる人々の葛藤を描く映画に思わず泣きじゃgroovy 。
余白の大きな映画だった。
あらかじめ観客が泣くことを十二分に承知の監督の仕業だ。
さて、アカデミー賞は人間の優劣を世間にあからさまに晒す装置だ。
ビューーーーーン!バチン!ドスン!!
君、危ないじゃないか!
八方から石の礫が飛んできそうだが、私たちは人間の優劣をはっきりさせる社会に暮らしていることはまぎれもないまやかしではない正真正銘の歴然たるほんまもんの事実であろう。
で、天才的な演技に感動して溢れる涙を自己中と測ることもない話ではないが、自分自身の余白を認識する機会と捉える見方も良しとしたらどうじゃろか?。涙は快楽のひとつでもあるが、挑戦や覚悟がそこに交じり合い虹の橋が空にかるなら私は溢れる涙を誘発する映画を毛足の長い絨毯に落としたイヤリングやコンタクトレンズやダイヤモンドリングを探すように目を凝らし探し見つけ抱擁したい。つまり、この映画は1000本に一本あるかどうかの溢れる涙映画なのである。そこへ至る道程を探るなら、脚本・俳優・演出・その他映画制作にかかせない数々の役割がこれ以上はないという環境がそろったからといって溢れる涙が生み出せるわけでもない。といって奇跡ということば似つかわしくない。しかし、人類が月に向かうように戦争をやめないように、
なぜか人間はもっともっともっとをあきらめもやめもしない。
もうたくさんだ!そんなシステムにおさらばしたい。そんなオルタナティブな欲望もトライも振り返れば数知れずあったが・・・なぜかやめないのだ。
さらにしかもいまのところご存知のように人間の歴史は向かう先を変えないようだ。だからあのヨーダ(Yoda)どこだ?
幕間
だから、もっと、ちゃんと泣かせてくれよ!ベイビー・・で、この映画を観て泣きじゃくりながら・・こんど生まれ変わったらチェロ奏者になって死ぬまで葛藤するぞ〜〜〜なんて思う・わけないじゃん。
なぜなら初代選曲家とはなにか?という問いを今まさにオイラは葛藤真っ盛りでござんす。せやさかいひっこしもさかいそんな先のことなんかしるもんもんか〜つまり私にはベートーベンを語る能書きは学んでまへんが、時間というキャンパスに絵の具の一つとして塗り込めることぐらいならやってまうで、たとえ、あんさん・あたまおかしんちゃう?といわれようが、溢れる涙が乾くまでやめられへんのや、たとえカンマチで手首足首が動かなくなっても口や腰をつかってでもぬりたくってやる。なんならあの世にいっていきたい選曲やりまくってやる・・・つづく。
選曲 SHIN SEKAI