![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/95333873/rectangle_large_type_2_080dcefbe25e3aae5f8d92f461199603.png?width=1200)
(2021:その 6) 父
令和3年7月に出直し(注)した前会長(父)への想いを、信者さん方に話した原稿です。
アルコール依存症の父は私のトラウマでもありましたが、尊敬する存在でもありました。
天理教(上級教会や周囲の方からのおさとし)はアルコール依存症の父を全く救うことはできませんでした。
でも、精神科の治療と母の支えと持ち前の誠実さで最後は治ったと思っています。
本当に、周囲はバカににしても、誰も助けてくれなかったなと思っています。
アルコール依存症の治療は神頼みではなく、適切な精神科の治療を受けさせることが必要だと思います。
知恵は悪ではなく、神から与えられた恩寵だと思いますので、その点をはき違えないようにしないと見失うものが大きいと思います。
天理教会長もいちゃんのお話(2020年6月〜2021年12月) | もいちゃん | 宗教入門 | Kindleストア | Amazon
から抜粋しています。
******************************************************************
本日は、本年(令和3年)7月に出直し(注)した父について思う所をお話したいと思います。(かしわ手)
私は小さい時から父の二面性を見て育ってきました。
酒を飲んでいるか、飲んでいないか、
寝込んでいるか、寝込んでいないか、
です。
私が見ていると、父は、3ケ月程度の周期で、寝込んでいるか、元気にひのきしん(注)をしているかでした。
元気な時は、晩酌に2合程度の日本酒は飲むけれども、朝早くから、元気に、庭の手入れやら、掃除やら、人の倍以上にひのきしんをし、頭も低く、とてもいい人間でした。
そうかと思うと、ある時期から、深酒をするようになり、酩酊して、酒乱で、朝も昼もずっと布団にくるまって寝ていました。
今思うと、元気な時期と寝込む時期が周期的にきており、躁うつ病であったと思います。
また、うつ状態の時は、気分を紛らわせる為に、酒でごまかして、酒量が増えてアルコール依存症になっていたものと思います。
子供心にそんな酒を飲んで寝込んでいる父は大嫌いでした。
そんな父でしたが、20年前に大学の精神科にかかるようになり、アルコール依存症の治療を受けました。
普通、アルコール依存症の患者さんは、酒を一旦止めることはできても、我慢できずに、すぐに飲みだして、元の状態に戻るのが一般的です。
しかし、父は20年間酒を断つことができました。
そのアルコールを断つことができた父はとても尊敬できました。
この為、私の中での父は、どうしようもない父と、尊敬できる父が混在している状態で、複雑な状況でした。
そんな時に遠方に住んで教会の方を全く見ていなかった私が、躁うつ病の身上(注)で、3年前に実家の教会に帰ってくることになりました。
そんな父が、昨年(令和2年)1月に衰弱して、食事もできず、起き上がることも出来ず、主治医から、余命あと、1ケ月と宣告を受けました。
そこで、最期を看取る施設に入ることになりました。
そんな時、2月の実家の教会の月次祭の際に、皆さんから、まだ父が存命のうちに教会長を変更した方が一番の親孝行ではないかと言われ、自分でもそうだなと思い、教会長を受ける決心を致しました。
ただ、教会長になる前に父の葬式があるのだろうなと思っていました。
しかし、父はそれから体調を持ち直し、私が教会長のお許しを戴いた5月26日も存命で、就任奉告祭をした7月4日も存命でした。
父は、ずっと施設に入ったままでしたが、私が教会長になったことで安心していたようです。
月に数度は父の元に行っていましたが、寝たきりでトイレにも行けなかった父が、段々と元気になってきて、車椅子で施設内を自分で移動できるようになり、そのうちに、今度は歩行器を使って立って歩けるようになりました。
また、今年の5月のゴールデンウィークには、私が結婚を考えている女性にも父に会ってもらい、談笑していました。
主治医の先生も、ここまで元気になったのならば、もっと軽い施設に移った方がよいだろうと、『看取りの施設』から、程度の軽い『老人ホーム』に本年(令和3年)6月25日に転居することになりました。
退所の際には、施設のスタッフ全員から、
『この施設から退所される方は、今までみんな棺にはいった状態でしたが、父は元気に退所された初めての人です。おめでとうございます。』
とお祝いされながらの退所でした。
私は施設も移れたのだし、暫くは元気に生活できるのではないかな?
コロナが落ち着いたら教会にもたまに帰ってきたらいいかな。
と、父はずっと生きている前提で物事を考えていました。
7月4日にも父の所に行き、教会ふしん(注)の件で、喧嘩したりしていました。
ただ、施設の方から、父が食事をほとんど取らないので、困っていると相談を受けましたが、元々食が細かったので、父にちゃんと食べるようにと、軽く叱ったりしていました。
父は、
『もう90だからそういじめるな。』
と言っていました。
しかし、7月10日に主治医から電話があり、
『血液検査の結果、食べられないのは腎機能が全く機能していないからです。もうあと数日だと思ってください。』
と言われ、唖然としてバタバタと施設に行き、先生と話をしました。
『昨年から何度も危ない時があり、その度に回復はしていましたが、もう今回は無理だと思います。
老衰ですから、このまま静かに見送った方がいいと思います。
無理に延命しても本人が苦しいだけです。』
と言われ、茫然としながら了解しました。
その日の夜に、主な親戚に連絡をして、父に会ってもらいました。
でも、皆さんは父がまだ元気で頭もしっかりしているので、大丈夫と思われたみたいでした。
しかし、その日から姉と交替で父のそばに付き添うことにしました。
7月12日は私の教会の月次祭でしたので、不謹慎ではありましたが、月次祭と出直し(注)が重なったらどうしようかなとも思いましたが、12日の月次祭は普通に勤められました。
祭典の終わりに、信者さん方に
『父はあと数日の命なので、最期に御会いしたい方は本日行ってください。』
と、お願いしたら、主な信者さんは父に会いに行ってくださいました。
その際、父はまだ元気に信者さん方と普通に話をしていました。
『まだ、元気やね。』
と皆さん、父が近々出直すとは思ってもいないようでした。
その日の夜は私が泊まり込みましたが、父は落ち着かない様子で寝つけなく、私も一晩中付き添っていました。
13日の朝6時に姉と交替して、会社に行きました。
夕方には再度施設に行き、父に付き添いましたが、父が小さい声で
『お前が教会に帰ってきてくれて嬉しかった。お前たち(私と姉)みたいにいい子はいない。』
と言いました。
その後段々と意識が薄れていって、もうそう時間はないと思いました。
酒を飲む父は嫌いですが、20年間我慢したのだから、最期くらい好きな酒を一緒に飲んでいいだろうと、22時に施設近くのコンビニに行ってお酒を買ってきました。
薬のみにちょっとお酒を入れて口に含ませて、
『美味しいね?』
と聞くと、コクっとうなずきました。
それからは色々なことを私の方から父に話しましたが、段々、涙が出て来て、嗚咽してしまいました。
泣いていると父は首を横に振って、泣くなと言っていました。
私は泣きながらずっと話をしていましたが、父は段々息が浅くなり、2時間後の翌14日の零時4分に息を引き取りました。
最期は痛みもなく、眠るように出直しました。
出直した後、遺体におさずけ(注)をさせてもらいました。
おさずけが終わった後、父の顔をみるとうっすらと笑っていました。
それを見て
『あ、出直したな。』
と思いました。
父が、倒れて、私が教会長を交代しての丁度1年間は、父を安心させる為の1年だったかと思います。
父が出直す直前の2時間は、私が父に持っていたわだかまりを解く為の時間だったのかなと思います。
どちらも神様から与えられた貴重な時間でした。
こうやって父は出直した訳ですけれども、皆様には89年間父が大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。(かしわ手)
(注)
出直し:亡くなること
ひのきしん:
親神様のご守護に感謝をささげる自発的な行為、勤労奉仕、ボランティア
身上:病気
ふしん:建築
さずけ:
病む人の体をさすると病気を平癒できるヒーリングの力
亡くなった直後にすると安らかに神様のもとに旅立つと言われている