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「百日のさしづ」と「おかきさげ」

「百日のさしづ」の中で、
明治四十年四月二十二日 梶本国治郎二十二才おさづけおさしづ
『さあ/\だん/\の席、だん/\の席、返やし/\の席をして、さあ一日の 日は生涯の心、一つの理を以て席とす。さあこれまでだん/\返やし/\の 席の順序一つの理、一つの心、いつ/\事情、又一日一席事情、生涯の事情、 生涯の心、 いつ/\事情、さあこれより先永く事情、先永あい事情に、たす け一条のため、こうの うの理、さあ/\神水(こうずい)の水として授け置こう。さあ/ \授けよう。』
とあります。

本席様にお運びを願うのは大きくわけて三種類あって、「刻限」と「身上伺い」と「お運 び(おさづけ・事情運び)」とがあります。
そして「お運び」の方は『さあ/\許し置こう』とか『事情許す』など、だいたい決まり 文句であって、「おかきさげ」も誰もが同じ詞を戴くわけでした。
初期の頃ならば「おさづけ」が明治二十三年くらいまでは盛んに『おさしづ』に収録されています。
その後のものはだんだん少なくになってきています。
「百日のさしづ」の中にこういう「おさづけ」に関する「おさしづ」が入っている のは珍しいことだと思います。
しかしこれはよく読むと、梶本家を台にして、「百日のさしづ」の文脈からでないと解釈できないような面がある「おさしづ」であり、梶本家の事情がここに入ってきているから、 御本部の配慮から「百日のさしづ」の一環と見なしたと思います。
ここでは「おさづけ」の「おさしづ」を梶本国治郎という人が戴いているわけですが、そ の次に梶本ミキエさんという人が出てきていて、とにかく梶本家がお仕込みを受けています。
ですのでこの二点は「百日のさしづ」に直接関係がないみたいですが、だんだん読んでみると分かる通り、決して関係がないのではなく、真柱様を引き出すためのお仕込みになっていると思われます。
「おさづけ」の「おさしづ」は別席の始まりとともに、「おさづけ」を戴いた時の主な角目になるお詞があるものです。

ですので、この明治四十年四月二十二日の「おさしづ」は珍しいものだと思います。

[さあ/\だん/\の席、だん/\の席、返やし/\の席をして、さあ一日の 日は生涯の心、一つの理を以て席とす。]
これは私達が「あしきはらいのおさづけ」【冒頭の写真】を戴く時の「おかきさげ」と全く同じです。
私達が戴く「おかきさげ」には次にように書いてあります。
『さあ/\だん/\の席だん/\の席、返す/\の席をして、さあ一日の 日は生涯の心一つの理を以て席とす。
さあこれまでだん/\返す/\の 席の順序、一つの理一つの心いつ/\事情。
又、一日一席事情、生涯の事情生涯の心いつ/\事情。
さあ、これより先永く事情先永い事情に、 たすけ一条のためこうのうの理を渡し置こう。
さあ/\授けよう/\。
あしきはらひたすけたまへ天理王命、と、これを三度又三度又三度三三三、さあ理を授けよう。
さあ/\受け取れ/\。』
これが「おさづけ」の「おさしづ」ですが、この「百日のさしづ」でもこれと同じ文面が書いてあるのです。
ただ最後の所だけ「あしきはらひのさづけ」と「神水のさづけ」の違いがあるだけです。
今「おさづけ」を戴く時にはこういう「おかきさげ」を戴きますが、そこに書いてある詞の意味が皆さん十分に治まっていますでしょうか?
でもこれは天の神様からそれぞれの人間が戴いた「生涯神様が全て理を許した」という尊 い「おさづけ」です。

最初の「さあ/\だん/\の席、だん/\の席、返やし/\の席をして、さあ一日の日は 生涯の心、一つの理を以て席とす」とはどういう意味でしょうか?
「さあ/\だん/\の席」とは「別席」の九席のことであり、同じ理の話を九回聞くわけです。
その一席二席三席四席と席を重ねてゆくことが 「さあ/\だん/\の席」と言われています。
神様は別席を運び、お話を聞くことで、その人間が人間心を洗い切って人間心が全くなくなったところに「おさづけ」を 渡すという形式になっています。
その人間心を洗い切るために設けられたのが「別席」 です。

★★私は高校2年生の17歳の時に学生会春の集いに参加して、初席を受けました。
それから冒頭の写真(もいちゃんのおかきさげ)の通り満席が47歳です。それから人生の節目〃〃で別席をうけていき、30年かけて満席になりました。私が受けた別席の取り次ぎ人の中のおひとりは今の真柱様でした。★★

「別席取次人」とは神様がお許しにならないとなれませんでした。
「取次の人しかとたのむで」と「おふでさき」にも言っているように、教祖が居た時は教祖が「あなたは取次人ですよ」といって、たとえば仲田儀三郎先生など限られた人が許されて取次人をされていたそうです。
それが本席様が御用をするようになってからは、本部員の先生方が取り次ぐようになったそうです。
ですので「別席」とか「おさづけ」は神様が決めたことでした。
今は真柱様が取り次ぎ人を選ばれているかと思いますが、今でも昔の形式を大事にして運んでいるのだと思います。
本来「おさづけ」とは、誠の人にだけ渡していたと聞いており、昔は非常に厳しかったものだったそうです。
昔は一生懸命に心を磨いて「おさづけ」を貰えるようにしよう・・という精神でつとめたという話も残っていると聞いています。
昔は神様がお許しになったものが「おさづけ」だったのです。

続いて「さあ一日の日は生涯の心、一つの理を以て席とす」とあるわけですが、私達は「一 日の日」とか「生涯の理」とか「生涯の心」とか「一つの理」ということを治めている人はあまりいないと思います。
お道には『一日生涯』という詞がありますが、「一日生涯」とか「一日の日生涯の心」とはそもそもどういうことでしょうか?
文面は先に言った通りですが、満席になって本席様の前に出て「おさづけ」 を戴く場面でいただく詞です。
「本席」とは「別席」に対しての「本席」であって、別席とは心を洗う段階で、心が洗われて神様の前に行って「おさづけ」を戴く時を「本席」と言っていました。
その時を「一日の日」 と言うわけです。
だから「本席」=「一日の日」と思ったらいいわけです。
ですので、
「さあ一日の日は生涯の心、一つの理を以て席とす」
の最後の「席とす」は「本席」 のことであって、これで満席ですよ・・という意味です。
このように「別席」と「満席」と「本席」というように、席にもだんだんにあって、最後 が「本席」という神様のお出張りを戴いて神様から理を戴くことになっていたわけです。
そしてここでは「生涯の心、一つの理を以て席とす」という詞が要なのです。
「おさづけ」 は普通は一代限りのものですから、生れ更わったら別席を運び直さなければなりません。
一人/\の心に戴く「さづけ」は一代限りですから、「生涯の心」と言われてい るのであって、「一生の間この心で通れば良いのですよ」ということで神様がお許しになるわけです。
ですから「一日の日は生涯の心」とは、「その時の心をいつでも汚さないように通りなさい」というのが「生涯の理」です。
世間一般でも「一日生涯」と言いますが、その場合は「今日精一杯やらせてもらったら何時死んでもいい」というような意味で言っているのであって、ここでの「一日生涯」とはそういう世間で言っている意味ではありません。
「おさしづ」に現れている「一日生涯」とは、「その時の心を生涯の心にしなさい」という意味です。
「おさづけ」を戴く時は、理として、人間心を洗って/\人間心がなくなって、全て神様に凭れてゆきます・・という心になるわけです。
それに対して神様は「全て守ってあげるから何も人間心を使わなくてもいいのですよ」といって「おさづけ」を渡されます。
そういう心になれるように心を洗っていくのが別席です。
そして神様は「自由の心を許すから、 その心を汚さずにいきなさい」というのが「一日生涯」です。
そもそも「おさづけ」とは何を戴くのかというと「教祖の心」を戴くのです。
「教祖の心によって私は生きます」というのが理を戴く「おさづけ」なのです。
私達は「おさづけ」を取り次ぐ時には教祖の心を取り次ぐのであって、それに曇りがなければ教祖がお働きになるのです。
それが「おさづけ」なのです。
その教祖の心がいわゆる「月日」の心であり、神様の心であり、自由自在のお働きができる心だから、人間は困らなくてもよくなります。
「生涯の心」とは、そういう尊い教祖の心を戴いたのであり、そういう「生涯の心」に一つの理を以て席とするのです。
この「一つの理」が「神様の心」であり「教祖の心」です。
ですので「おさづけ」の意味は「教祖の心」を戴いて、それをいつでも守ってゆくということです。
この「教祖の心を戴く」とは、戴きっ放しで自分は何もそこに繰り返し教えられることがないのとは違います。
 「一つの理」とは神様の思惑の世界であり、教祖がいつでも生きて働いているのだから、 教祖の御心が生きているということは、旬々にず~っと神様の想いがあるということです。
ですので、神様がお出張りになって、神様の「おさしづ」に一筋になってゆくのが教祖の心なのです。
当時は「おさづけ人」は「おさしづ」によって、効能がその時々旬々に現われたそうです。
『三年千日』と五年祭の時に言われたのも、「おさづけ人」に対して許したお話だそうです。
それはちょうど明治二十二年十一月七日に出たお詞ですが、それからのお助けは、「おさづけ」を持っている人は、「お地場からこういう打ち出しがあった」といって素直になれば皆理を戴けたそうです。
神様はこれから三年千日「おさづけ」をどんどん使いなさい、使ったら使った者に効能を現す・・というような主旨のお詞が『三年千日』のお詞です。
そうしたら青森だろうが北海道だろうが九州だろうがどこだろうが、「おさづけ」を取り次いだらどんどん「おたすけ」が上がったそうです。
それは教祖の心がそういう旬の心だから、それに素直に着いてゆけばその理を戴けたということです。
そしてまた教祖の思いが旬々に諭されるのが「おさしづ」であり「天の声」でした。
だから皆その「天の声」を聞くためにお地場に行くというのが神一条の仕組みでした。
その教祖の心に一筋になってゆくというのが「教祖の心を戴く」ということです。
だから、お一人の神様が、お一人の親であり、その心が一つの理です。
そうして皆が一手一つになって、理を戴いて活躍して戴くのがお道の助け一条の方法です。
そうして「おさづけ」が許されるのです。
「おさづけ」とは、教祖がお姿を隠してから戴けるようになったものです。 そして地場では「つとめ」、世界には「おさづけ」というように、「おつとめ」と「おさづ け」は二つ一つの関係にあります。
ただ、お地場に行って九席運んで「おさづけ」を戴いたら、すごい効能を戴いてきて、それによって不思議な「おたすけ」ができると我々は悟っていますが、理の仕組みと「おさづけ」とを理解する必要があります。
この「おさづけ」の「おさしづ」の中で一番大事な詞は、「さあ一日の日は生涯の心一つの理を以て席とす」という詞です。
[さあこれまでだん/\返やし/\の席の順序一つの理、一つの心、いつ/\ 事情、・・・] これはどういうことでしょうか?
別席とは「神様の心」を聞かして戴くものです。
繰り返し/\神様の心を聞かして戴くものです。
「かしもの・かりもの」とは、神様はいつ何時でも自由自在するのだから、何も心配要らない、あとは神様の心に凭れてゆけば「陽気ぐらし」となります。
「順序一つの理」とは何でしょうか?
別席で聞かして戴く話は神様の心であり、神様の心がどれだけ積み重なって今日の人間ができてきたか、また、これからも神様の理が世の中の全てを支えてゆく、その第一に必要な話が「かしもの・かりもの」の話です。
だから「さあこれまでだん/\返やし/\の席の順序一つの理」とは神様が御苦労下された順序であって、人間を創造してきた、育ててきた順序一つの理とは「神様の心一つ」ということなのです。
そして「一つの心、いつ/\事情」とはその神様の心が永遠に変わらないということなのです。
未来永遠にいつ/\までもそういう事情は変わらない・・ということを別席で聞かして戴き、また本席でもあらためて聞かして戴くわけです。
だから「おさづけ」の「おさしづ」は非常に省略形になっています。
「一つの心」とは前もって別席で聞かして戴いた話を集約していますが、
「一つの心」といえば「神様の心」であり、
「いつ/\ 事情」といえば、
「永遠に神様の目的は変わらない」という意味となります。
要するに、「絶対に一つの心が狂い無く進んでいるのが世界の事情である」という神様の側の説明をここではしています。
[又一日一席事情、生涯の事情、生涯の心、いつ/\事情、・・]
これはどういう意味でしょうか?
最小限にお詞が出ていますが、ここでは、どうしても必要な詞が出ています。
これはどういうことでしょうか?
私達はこの詞を観念的に分からなければなりません。
前と同じような詞が繰り返されているように思うけれども、同じ事を言っているのであれば、こんな詞は繰り返されません。
これはどういう意味でしょうか?
「神様の事情が変わらないのであれば、これから人間の心も変わらなければ良い」という意味です。
別席を通して聞かして戴いた神様の心とは、
「順序一つの理」
「一つの心」
「いつ/\事情」
であって、永遠に変わらない心である・・
と説明なさったのですから、今日あなたが定める心も全く右往左往することのない、変わることのない一つの心、「生涯の心」でなければならな いのであって、その心がいつ/\までも変わらなければ難儀不自由することはない・・ということなのです。
だから「神様の心に合わす」という心が人間の側の「生涯の心」であって、それが「誠」なのです。
要するに「誠」という心が日々常々の心であり、「誠」が日々常々の心であれば、生涯、難儀不自由することはないというお諭しなのです。
「神様の心はこういう心で、神様はこういうことをなさっている」という話を別席を通じ てず~っと仕込んで戴き、
「そんな結構な思惑であれば私もその心になってこれから生涯通ります」
「いつ/\までもこの精神を忘れないように通ります」といって心を定めたその人間の方から、定めた心の中身を神様が写して言ってくれているわけです。
だから「又一日一席事情、生涯の事情」とは、神様の方が変わらないのだから、人間の方も定めた心を変える必要がないということなのです。
そういう仕組みになっているのが「おさづけ」の仕組みなのです。

もう一つの方の「おかきさげ」には次のように書いてあるわけです。
『さあ/\だん/\の席返す/\の席をして、さあ一日の日というは生涯の心一つの理を以て一つ席とす。
席に順序一つの理は、よく聞き分け。
席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。
生涯の理を諭すには、よく聞き分け。
難しい事は一つも言わん。
どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我 がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、たゞ一つ自由と(じゅうよう)いう一つの理。
自由という理は何処にあるとは思うなよ。
たゞめん/\精神一つの理にある。
日々という常という、 日々常に誠一つという。
誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うな れど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。
天の理なれば、直(す) ぐと受け取る、直ぐと返すが一つの理。
よく聞き分け。又一つ、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという。
それ世界成程という、成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。よく聞き取れ。
又一つ、これまで運ぶという、尽すという。
運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。
互い扶け合いというは、 これは諭す理。
人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かると いう。
よく聞き取れ。
又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。
又一つ、第一の理を諭そう。
第一には、 所々に手本雛形。
諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業と いう。
これが第一。
又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。
二つ 一つが天の理と諭し置こう。
さあ、これより先永く変わらん事情に。 』

これが神様の方でお諭しする神様の約束事なのです。

人間が「本当に心治まりました」「これで私の心はすっきり澄み切りました」「ありがたい」 というところに戴くのが「おさづけ」なのです。

[さあこれより先永く事情、先永あい事情に、たすけ一条のため、こうのうの理、 さあ/ \神水(こうずい)の水として授け置こう。さあ/\授けよう。]

こうして「おさづけ」を戴いた・・ということになるわけです。
だから神様は人間に「印」を打つわけです。
印とは、
「この者はお地場に来て一度心を洗った者であり、洗って心を授けてある者である」
という印であり、それは一つの約束事なのです。
人間は本当は元始まりにそういう約束をしているのです。
でもそれを忘れているから、人類という人類は全てお地場に引き寄せて、別席という制度を設けて、洗い変えして、
「神様はこう考える」
「人間は心自由である」
「その自由の理に誠があれば何も不自由することはな いのですよ」
という約束事をあらためて取り交わすわけです。
だからこれは魂の理に印を打ったのであって、神様と人間との間にキチンと理の約束事が治まった理に対して「おさづけ」を許しているわけです。
「私達は元始まりにそんな約束をしたなんて覚えていない」と言うかもしれませんが、神様が現れて、あらためて理を諭して洗い変えして、「魂と神様の働きとはこうして成り立つのですよ」という約束を取り交わしたのがお地場を現した理なのです。
そして人間一人/\を手引きして、親が膝詰めでお諭しして、「こういう約束の下にこれ から思い切り生きていきなさい」というのが「おさづけ」なのです。
約束を交わした人間はこれからどう生きたらいいかという問題があるわけです。
神様も知った、
神様の想いも知 った、
神様の約束も知った、
そうしたらこれから困らないようにするためにはこうすればい いのですよ・・
と授けてくれたのが「さあこれより先永く事情、先永あい事情に、たすけ一 条のため、こうのうの理、さあ/\神水(こうずい)の水として授け置こう。さあ/\授けよう」という理なのです。

「おさづけ」を戴いたらどうしたらいいのでしょうか?
それは「おたすけ」でしょう。
では「おたすけ」するのにはどうやって「おたすけ」したらいいでしょうか?
そもそも「つとめ」とか「さづけ」はどうして教えられたのか?
神様の心は決まっているし、約束も決まっているし、理も決まっているのですが、全く神様のことを知らない人達はどうしたら神様を分かってゆくのでしょうか?
「さづけ」と「つとめ」は神様が如実に働いている理を現す合図になっているわけです。
神様の存在も知っていて、神様の想いも知っていて、「おさづけ」を取り次がなくても御守護を戴く人は別として、神様を全然知らない人にとっては不思議合図は絶対に必要なのです。
そういう不思議合図としてお許しになったのが「おさづけ」なのです。
また「おつとめ」 も「お願いづとめ」を許しているわけですから不思議合図なのです。
「おさづけ」を戴いて、三日三夜のキチンとした約束で治まれば皆「成程」と思うわけで、それは人間の現状に対する神様のお慈悲なのです。
「神水」を授けるとか「御供さん」を授けるというのも、分らない人達に分からせるために許したものなのです。
「おさづけ」や「おつとめ」には不思議合図という一面があるわけですが、もちろん全面的に不思議合図ということではなく、「おつとめ」はどこまでも/\「元の理」の「つとめ」であって、同じ理を一つの効能の合図として見せようという神様の大慈悲から出たお許しなのです。
だから「おさづけ」を取り次いで不思議を戴けば、万人が万人ながら「神様に助けて戴い た」「神様の実在が分かりました」といって、そこから糸口がついてゆくわけです。
そういう効能を付けてあるのが「おさづけ」であり、「おさづけ」は親神様の心を戴くのですから、心を立て替えて生涯放してはならない心として戴くわけです。
不思議合図をつけて渡すという意味で、「先永く事情、 先永あい事情に、たすけ一条のため、こうのうの理を授け置こう」と言われているのです。
「神様の心を戴く」ということにもう一つ大慈悲がかかって、「効能の理」を授けているわけです。
「効能の理」は人によってさまざまな戴き方をしています。
「息のさづけ」とか「神水のさづけ」とか「てをどりのさづけ」とか、
ここで梶本国治郎さんという人は「神水のさづけ」を戴いています。
この「神水のさづけ」を戴いた人は他にもいて、松村吉太郎さんなどもそうだそうです。
「神水のさづけ」とは自分が先に飲んで口をつけた水を病人に飲ましてやるものであって、清水がない場合は泥水でもいいから飲ましてやれ・・という御注意があるわけです。
それくらい自分が飲んだ水には効能があるというのが 「神水のさづけ」なのです。
この「神水のさづけ」をもって、神様は助け一条を支援しているのであって、助け一条とは神様の「おさしづ」を堅く守ることによって実現してゆく「さづけ」なのです。
「神水のさづけ」「息のさづけ」「食物」「煮たもの」といった「さづけ」は今はもうなくて、今は「あしきはらひのさづけ」しかありません。
その「あしきはらひのさづけ」を戴く時のお許しのお詞が、
先の・・・ 『さあ、これより先永く事情先永い事情に、たすけ一条のためこうのうの理を渡し置こう。さあ/\授けよう/\。あしきはらひたすけたまへ天 理王命、と、これを三度又三度又三度三三三、さあ理を授けよう。さあ /\受け取れ/\。』 という「おかきさげ」です。

お許しは非常に大事なものです。
神様が一旦その人に許したといえば、本人が汚さない限りいつでもそれを許されているものです。
だから心を洗い変えさえして、「私はそういうことを知らなかった」といえば、またこの「おさづけ」が明日からでも働くようになるわけです。
だから「おさづけ」とは、まず「親の心」を戴き、そして「効能の理」を戴くという二つ の面で理解しておけばいいわけです。
「親の心」とは自分の生涯の心として狂わさないということであって、そこに助け一条のために「効能の理」を授けられているわけです。
「おさづけ」に関しては御注意がたくさんあって、本席様の時代は、神様は非常に慎重に人間の心を御指導していました。

神様は「おさづけ」を取り次いでも取り次がなくても、そういう旬には働こうと待ち構えているわけです。
でも取り次ぐ人がいたら、その取り次ぐ人がどれだけ喜びで運ぶかという喜びに対して効能を与えようとしていますから、誰でも彼でも「おさづけ」を取り次げば助かったという時代もあったのです。

ここまでにします。



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