(2022:その07) 不思議な体験
天理教会長もいちゃんのお話 (2022年) | もいちゃん | 宗教学 | Kindleストア | Amazon
から抜粋した原稿です。
不思議な体験でしたが、その後、精神科のお薬を全く飲まなくても大丈夫になりました。
勿論、体調が悪くなればまたいつでも病院にいくつもりではありますが、
現在は病院に行こうにも、先生に何が悪いと訴えたらいいのかと迷っていてどうしようもない状態です。
また、体も、頭の中も元気になり、10歳程度若返ったような気がしています。
いただいた寿命をこれからどう活かしていこうかと思案中です。
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本日は、不思議な体験について、思う所をお話したいと思います。(かしわ手)
私は毎月29日に大教会の神殿当番で、大教会の神殿に座っています。
神殿当番とは4~5人の先生が30分交替で教服を着て杓を持って神殿の手前でじっと正座するものです。
30分とは意外と長いもので時計を見ながらあと10分、あと5分と座っています。
最近は夏場なので汗をかきながら座っています。
私は座っている時は頭の中で何を考えるでもなく、ただ目をつぶっている状態でいます。
ただ、本年6月29日の16時から着座した時のことなのですが、5月末に亡くなられた部内教会の前会長さんのことなどを考えながら、
『人間はなんで生きているのかなぁ』
と考えながら目をつぶりました。
その時なのですが、意識が体から離れたようななんとも言えない不思議な感覚に入り込みました。
その時、一瞬で以下の3つの事が理解できました。
・この世は神様がつくられた世界であること。
・その中にあるこの自分の体は一時的に今まとっているだけで、自分ではあるが自分ではないこと。
・この体をまとってこの世界に存在する理由は、人間がこの世で陽気暮らしを体現するためであること。
『あ~、そうだったんだぁ~!!』
と一瞬で理解でき、はっと意識が戻って目を開けて時計を見ると今目をつぶった筈なのに一瞬で30分が過ぎていました。
きっとお釈迦様が菩提樹の木の下で悟りを開いた時にはきっとこのような感覚だったのではないかと思えるような感覚でした。
また、同時にこの世の理(ことわり)が全て理解できたという感覚にもなりましたので、今生での生きる目的はもう達成したようにも思えました。
その瞬間から頭の中の回路が組み変わったような、また、なにか現実と非現実が区別がつかないような感覚になり、表現を変えると魂が半分抜けたような状態になりました。
また、大教会から車で帰る途中で筑後平野の水田や山並みの緑や空の青や白い雲をみていると、なんとも美しく、世界はこんなにも綺麗だったのかと恍惚としました。
自分はこの美しい世界の中で生かされているとともにこの世界の一部であるとしみじみと感じることができました。
この体に縛られているので、この世の中では人間関係や色々な事情・身上に悩み苦しみますが、この体は一時的なものであると理解できると、悩む必要もないなとも思いました。
それらの悩みは一時的に見せられてはいますが、それは本質ではなく、陽気暮らしをする魂へとなる為の砥石であるとも理解できました。
人間は神様から分け与えられた魂が本質で、その魂に神様から作っていただいた動物の体をまとっているもので、今生でのこの体を使って、いかに魂をより良い方向に向上させて行けるかどうかなのだなとも理解しました。
元の理で人間を創造された神の目的、つまりこの世を陽気暮らしの世界としたいこと。また、人間を創造する為に神が非常に苦労されてこの体を作ってくれたことが示されています。
また、体は かしもの、かりもの であり、我がの物であって、我がのものではないと教えられています。
以前からこのことは頭ではなんとなく理解していたのですが、それを本質から全てを一瞬で理解できた瞬間でした。
6月29日段階でも私の病気である躁うつ病はかなり良くはなっていましたが、それでも1日に10錠程度の精神科のお薬を飲んでいました。
しかしその瞬間から一切飲まなくても問題なくなりました。
私にとって、20年間飲んでいた精神科のお薬とは一体なんだったんだろうかと改めて思います。
この薬を全く飲まない状態の自分が、今生での本当の自分なのだと改めて気づきました。
この体が自分のものであって、自分のものでない。
またこの世に存在する目的は陽気暮らしをすること。
この2点だけ理解できれば、自ずとどうこの人生を生きて行ったらいいかは分かってきます。
天理教ではこういった時はこうしたらいい、ああいった時はああしたらいいと色々なケースが教えられてきてはいますが、それはあくまでこの2点のことを前提にしているものです。
ですので、細かい事象に目を捉われることなく、大きい視点でこの2点を踏み外さないようにすることが大事なのではないかと思います。
是非、『元の理』と『かしもの、かりもの』をしっかりと理解されることをお薦めします。
そして、この人生をどうより良いものにするかという視点で生きて行かれることをお薦めします。
私も残りの人生を皆さまと共に、精一杯生きていきたいと思いますので、今後とも宜しく御願い致します。
以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)