東京は夜の七時
東京で生まれ育った人間を見つける方法なら、いろいろある。
まず、東京ばな奈を食べたことがない。
東京スカイツリーにはなんの興味も示さないくせに、なぜか東京タワーの話となるととたんに熱く語り出す。
でも、いちばんわかりやすいのはこれじゃないだろうか。
「帰省」ということばの響きになにやら甘い幻想を抱いている。
そいつは、そう、まぎれもなく「東京もん」だ。
そもそも、東京で生まれ育った人間には「帰省」のなんたるかがわからない。帰省すべき場所、つまり故郷と呼びうる土地をもたないからである。
だから、80キロの渋滞にも150%の乗車率にもめげることなく盆暮れに帰省する人びとの意気揚々とした姿を見るにつけ、はたしてその先にはどんな「ステキ」が待ち受けているのだろうと訝しく思い、妬まずにはいられない。
いや、すこし言い過ぎました。東京で生まれ育った人間に故郷がないというのはウソです。東京もんの故郷は、ここ東京にちがいない。
だが、ぼくが言わんとしているのはそういうことじゃない。本籍地とかなんとか、そういったお役所的な意味でのそれではなく、山とか海とか、あるいは一面に広がる田んぼとか、そういう心のよりどころとなるような「風景」が東京で生まれ育った人間にはないと言いたいのである。
そんな自分にとって、「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」という石川啄木のよく知られた歌は、世界でもっとも共感できないもののひとつだ。何をありがたがっているのだ。完全に理解を超えている。
そこで、「山」の部分を多少なじみのある「サンシャイン60」に置き換えてみたが、ますます意味がわからなくなった。たしかに噴水広場は嫌いじゃないが、ありがたいと感じたことは一度もない。
しかし、それは東京で生まれ育った人間のいわば「宿命」みたいなものだろう。ひたすら「上書き」が繰り返される、それが東京の東京たるゆえんだからである。
事実、東京の風景は20年も経たずしてガラリとその姿を変えてしまう。小学生の時分に目にした風景が、大人になってもなお残っているなどということは稀だろう。由緒正しき神社でさえ、いつのまにか隈研吾の作品として生まれ変わっているような場所なのだ。
最近ではこんなこともあった。夕刻になると、きまって「カンカン」という甲高い声で鳴き出す鳥がいる。いったいどんな姿かたちの鳥なのだろう。
ある日のこと、外を歩いていると自分のすぐかたわらで例の鳥が鳴き始めた。あわてて見回すと、目に飛び込んできたのはいままさにバックで駐車しようとしているピカピカのEV車の姿。
カンカンという「鳴き声」が、たんにそのEV車が発する警告音にすぎなかったと知ってぼくは脱力せずにはいられなかった。きまって夕刻に聞こえてくるのは、その時間帯に帰宅するからなのだった。寄り道くらいしろよ。
しかしそんなことだって、いまに始まったことではない。東京には空が無いと、智恵子も云ってたじゃないか。
思えば、東京は徳川家康が江戸城を築いたころからずっと変わらず「工事中」である。しかも、その工事が完成することは永遠にない。サグラダ・ファミリアか。
それでも、ひとつところに長く暮らしていればそれなりに思い出深い風景も増えてゆく。「原風景」と呼んでもいいだろう。
誕生日とか、特別なときに連れていかれた数寄屋橋のレストラン。このときばかりは、運動靴から革靴に履き替えさせられた思い出。
初めてグループデートをした新宿の百貨店の大食堂。いまとなってはなんの映画を観たかも忘れたが、みんな緊張して黙々とスパゲッティーを啜っていたことははっきり憶えている。
だが、そのどちらもいまはない。消しゴムでゴシゴシこすったかのようだ。おもかげすら感じられない。
ザリガニ釣りをした小さなため池は駐車場になってしまったし、友達とイタズラをして、寿司屋のオヤジが顔を真っ赤にして追いかけてきたとき逃げ込んだ町工場の一角も、いまやヘーベルハウスが整然と並ぶ住宅街へと姿を変えた。
そしてこの夏、さらにもうひとつ自分にとってはなつかしい風景が姿を消した。94年の歴史に幕を下ろした「としまえん」遊園地である。
としまえんといえば、夢のようにうつくしい回転木馬「エルドラド」を思い出すひとも多いだろう。あるいは、昭和のキッズなら探検家気分を味わえる「アフリカ館」を挙げるかもしれない。ほかにも元祖「流れるプール」や夏休みの打ち上げ花火など、東京でもとりわけ城北エリアに育った子どもたちにとってはおなじみの遊び場だ。
そのとしまえんに、幼稚園のとき遠足で訪れた。こひつじ幼稚園の年少さんのときの話である。
その日、ぼくはどうしても「ミステリーゾーン」というアトラクションに入りたかった。カートに乗って回るのがカッコよかったし、「お化け屋敷」は怖そうだが、なんとなく「ミステリーゾーン」なら平気なのではないか、そんな幼稚園児なりの目算もあった。
その予想が完全な誤りであると知ったのは、カートが走り始めてすぐのことである。これ、もしかして「お化け屋敷よりも怖いお化け屋敷」じゃね? しかも、ご丁寧なことにスピーカーからはひっきりなしにおどろおどろしい効果音が大音量で流れつづけている。
さらに、である。こっちは動くカートに乗っているのだ。
おわかりいただけただろうか?
いちど入ってしまったが最後、引き返すことはもうできない。
根っからの臆病者であるぼくにとって、よくあるお化け屋敷の怖さをふつうの辛さのカレーとしたら、ミステリーゾーンのそれは20倍カレー級といえた。「怖さ」を「辛さ」にたとえる意味がよくわからないが、まあ、とにかく危うくチビりかねないくらいには怖かったのである。
そこで、こひつじ幼稚園の年少さんであったぼくは、ありえんくらい強く目をつむり、両手で耳を押さえ、それでもなお恐ろしい効果音が聞こえるので出口にたどり着くまで大声で歌いつづけた。全身全霊で歌った。
なにを歌ったかというと、「讃美歌」である。こひつじ幼稚園はカトリック系だったのだ。あるいは悪魔祓いのつもりだったのかもしれない。
ようやくアトラクションから出て半べそをかきながら肩で息をしていると、ミステリーゾーンに入るときにはまったく気づかなかったのだが、まさにいま館内にいる人たちの絶叫が外に向かってスピーカーから大音量で実況されている。
ということは、自分の讃美歌もこんなふうにずっと流れていたってこと? もしかしてユミちゃん(当時好きだった女の子の名前です)にも聞かれてしまった?
あああ、、、
それからというもの、「としまえん」という文字を目にするだけでわけもなく変な声が出るようになってしまった。たしかに、考えようによっては、こんな苦い思い出もあったればこその「故郷」かもしれない。
しかしそのとしまえんも閉園を迎え、またひとつ、東京もんにとってのかけがえのない原風景がブラックホールにのみこまれていった。跡地には、ハリー・ポッターのテーマパークができるらしい。
心にはぽっかりと穴があき、後には黒歴史だけが残った。
※この文章はマガジン「東京嫌い」(2020年)に収録されたものです。
お誘いいただいた林さん、Yukiさん、そしてふみぐらさんにあらためてお礼申し上げます。