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多幸感について。
231.多幸感
スクリーンでひさしぶりに映画を観た。いつぶりだろう? ちょっと思い出せない。『蜜蜂と遠雷』以来かも。
夜の恵比寿ガーデンプレイスもひさしぶりだった。リモートワークの影響か人影もまばらで、全体的に暗い。
思いのほか早く到着してしまったので、ベンチに腰掛け心おきなくマスクをはずして夜風に吹かれていた。心地いい。
やはりなんだかんだいって、デパートだったり電車の中だったり、多くのひとが密集しているところにいるときは気が張っている。外出して、こんな風に肩の力を抜いてひとときを過ごしたのはとてもひさしぶりに感じられた。
本来、感染症うんぬん関係なく、ひとがたくさん集まっているところで過ごすのには緊張が伴う。そこに、自分のかたわらにいる人が、はたしてどんな人間なのか分からないというのはちょっとした恐怖である。
にもかかわらず、ふだんはそんなこと当然だが考えはしない。そういう小動物のようなアンテナをOFFにしないことには都会では生きてゆけないからである。いってみれば、鈍感であることを習慣的に強いている。
ところが、新型コロナウイルスという見えない敵が介在したことによって、つまり小動物のようにつねに目を配り、耳をそばだてて暮らさざるをえない状況になったことで、いま自分たちがいる場所がいかにストレスフルであったかをあらためて突きつけられたというわけだ。
フィンランド人が隙あらば都会(といっても日本人の目からしたら地方都市くらいにしか見えないのだけど)から抜け出し、そそくさと森やら湖やらに出かけてゆく姿をなんだか滑稽なもののようにさえ感じていたのだが、いま、この状況になってはじめて彼らの心理が手に取るようにわかった気がする。
ただ、ぼくらが鈍感に慣れすぎていただけなのだと。
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