見出し画像

ロング・デイズ・ジャーニー この夜の涯てへ 地球最后的夜晩/ビー・ガン

画像1

タイトル:ロング・デイズ・ジャーニー この夜の涯てへ  地球最后的夜晩
Long days journey into the night
監督:ビー・ガン 

観終わった後に頭の中でパーツを組み合わせてみる。映画の中の記憶を辿りながら、主人公の記憶を辿っていく。ひとつひとつの記憶が赤と青のハレーションを起こした色合いの中で結びつき、離れて、再び結びつく。主人公が迷い込んだあの迷宮のように頭の中で仄暗い穴の様な鉱山の中から村へと彷徨う様に。パズルの様にピースをはめ込みながら、足りないピースを記憶の中から探し出す様なそんな仕草が常に頭の中をよぎり、あのロマンティックな部屋の回転の遠心力に只中に脳みそはぐるぐると振り回される。満たされない感情があの高まりの中で現実を置き去りにしながら、夢という記憶の集合体の中で漂っている。

予告を観た瞬間にウォン・カーウァイ作品がフラッシュバックした。欲望の翼の湿度の高いむんとした空気に近い雰囲気というか、肌にじっとりと絡みつく空気。ネオンの輝きは蠱惑的な魅力がある。かつてのウォン・カーウァイの映画にもあった、街が放つ色香が溢れていたのと同じ匂いを感じながらも、今作は都会的ではない地方の寂れた雰囲気が似て非なる感じがある。

画像2

舞台となる凱里(かいり)市は中国の西側に位置する場所で、劇中にあるように山に囲まれていてラジオやテレビからは水害警報が流れている。
どの建物も廃墟のように荒れ果てているのは、元刑務所跡地でロケーションしたために、ああいった崩れかけの建物ばかりだったようだ。
長回しという点でアンドレイ・タルコフスキーの名前も各所で挙げられているが、中盤で映画館に入る前に出てきた壁だけになった建物のシーケンスを観た時にそれを一番感じた。あの広大さのある不思議な空間はノスタルジアのラストを思い出させる。ラスト60分のあの空間と、過去の回想シーンはどちらも非現実的でまさに夢を見ているような感じだった。それら全てがあの建物やロケーションがあったからこその画からみなぎる説得力だったのではないか。

画像3

一見フィルムノワール的なハードボイルドを思わせるストーリーは、現在と過去が入り混じっていて、かなりわかりにくい構造になっている。かつての愛人の足取りを追いながら(この点はヴィム・ヴェンダースのパリ・テキサスを思い浮かべる)、所々散りばめられているフレーズがキーになっていて、回る部屋、松明と蜂蜜、りんごと赤い髪、燃やされた家、カラオケ、銃、トラックなどが渾然一体となって後半の夢へと突入する。思い返せば冒頭のシーンでも夢の話から始まっていた。こうありたかった人生のやり直しというか、希望みたいなものはデヴィッド・ランチのマルホランド・ドライブの前半にも通じる。マルホランド・ドライブも主人公が見た世界が、自分の理想として虚像の世界として繰り広げられている作品だった。ただしマルホランド・ドライブはパズルがぴったりハマるように出来ているのに対して、今作はそれとは異なるように思える。各キャラクターが抱える感情は多くを語らず、それぞれの想いははっきりとは示されない。ラストのキスシーンは主人公の想いの全てが夢の中とはいえ実った凄まじくロマンティックな描写で、かつて愛し合った水辺のシーンの幻想的なシーンを再びこの手に取り戻した瞬間だった。記憶を辿りながらそこへ至る主人公の想いは、思い返すほど切ない気持ちにさせられる。
後半の描写は村上春樹の世界の終わりとハードボイルドワンダーランドやねじまき鳥クロニクルに通じるものがあった。むしろアフターダークで村上春樹がやりたかった世界なのかもしれない。
長回しという点では、タルコフスキーやアルフォンソ・キュアロンのゼロ・グラヴィティ、トゥモローワールド、タラ・ベーラの諸作品が想起させられるものの、そのどれとも似ているようでどこか異なる。よりロマンティシズムの強い耽美さがこの映画の魅力にも感じる。
観賞後にビー・ガンのプロフィールを見たらグザヴィエ・ドランと同い年ということに驚いた。てっきりある程度年のいった人物と思い込んでいたから。
それにしても中島みゆきが流れたのは意表をつかれた。

林強と許志遠によるスコアも良かった。スフィアン・スティーヴンスのキャリー&ローウェルのような寒々としたギターの音色がより強い孤独感が包み込む。

音のこだわりが強い映画でもあり、感情の高まりが画面とは少し独立して鳴っているので、こればかりは映画館で体験して欲しい。余りの音量にスピーカーが共振するくらいダイナミックなサウンドだから。

監督のインタビューはこちら。




いいなと思ったら応援しよう!