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【映画】窓辺にて/今泉力哉


タイトル:窓辺にて 2022年
監督:今泉力哉

何年か前に同僚から「もっと怒ってもいいんじゃない?」と言われた事があった。その頃の僕の様子に、起伏のなさというか表立って感情を出す事が少なく感じていたのかもしれない。別に何かを諦めていたり、特別鬱々としていた訳でもなく、ただ単に感情を表立って荒らげる機会が、ただ単に無かっただけなのだけれど。そう言われると、自分が誰か他人に向けて何も伝えて無いような気がしていて、無感情な人間に映っていたのかなと思ってしまった。
待望の今泉監督の新作「窓辺にて」の主人公市川も、感情を荒げることもなく、妻の浮気に対面した時に何も感情が湧かない事への自問が綴られていた。多分多くの人にとって身近なテーマだから、自分だったらどうするだろう?と自問するだろうし、実際に劇中の各キャラクターが自分の立場を棚に上げながら自問している。諦めでもなく、憤りも起きない事へのナチュラルに受け入れてしまった事への不思議さは、普段から何かしら起きる感情でもあると思う。ある人にとっては重大な違和感であっても、ある人にとっては理屈ではなく自然に受け入れられてしまう出来事は、少なからずあるのではないだろうか。関係のクリティカルな出来事ほど、ドラマティックに捉えられがちではあるものの、川が流れていくようにさらりと自分の中で消化出来てしまうことは、かえって共感というものが他者への理解の邪魔になっているようにも感じる。諦観とも言い切れない感情の機微は、言葉では説明出来ない。けれど本人が感じていることと、他者が受け取める感じ方の距離は埋める事が出来ない”たかが他人事”なのかもしれない。
本作の肝は三人の出来事を二人で描いている事だろう。夫婦間の出来事、不倫現場、市川と留亜など三者の関係性の中でひとり欠けた形で描かれる。三人の場面ではもうひとりが欠けた状態であった(市川と留亜と彼氏の場面は例外だが、その後のニケツの場面は留亜が欠けている)。三者の関係の中でひとり不在であることで、かえって不在の人間への想いが発露されていく。不倫している側もされている側も、そこにいない人間の事を考える。自分の感情よりも、そこにいない人の想いが何処にあるのか、「手放した」先に何があるのかを考える。必死に掴む事ではなく、手放した先にあるものは結局の所自分自身の感情に不思議とゆり戻ってくる。
それを最大限に描いたのが、長回しによる市川と紗衣の場面だった。フィックスしたカメラアングルで淡々と夫婦の感情が刻一刻と変化していく様に「これ取り直しは出来ないよな…」と余計な心配をしてしまうほど緊迫感のある場面であった。凄い。ここだけでも、この映画を観た価値があるというか、とにかく圧倒されてしまった。これがあるだけで傑作として今後も残る作品なのは間違いない。
日本のホン・サンス、エリック・ロメールとも言える今泉監督らしい居心地の悪さもしっかり挟み込まれていた。会話の中でも、120%受け答えを返すよくある日本映画とはちがって、そっけなく「うん」だけで終わる会話は常日頃私たちが日常で会話しているリアルな状況だと思う。普段の会話でその全てに応答する事は稀で、そつない返答で会話が途切れる事は多々ある。会話劇の中にその様なそつのない返答を入れ込む辺りに、流石だなとつくづく感じてしまった。


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