スタンダードを敬う
何かを人に提供している側にとって、「飽きられる」ということは最も怖いことだと思う。
例えば何か発明的なものを提供できたとして、その時は物珍しく持てはやされたとしても、世間がその発明に慣れてきた時には、飽きた、とか、時代遅れ、とか、ダサい、とか、言われる。
そういう「飽きられた存在(消費しきられて過去のものになる)」になるか「スタンダードな存在(世の中の大部分がそれを消費し続ける)」になるかは、紙一重のような気もする。
志村けんさんの追悼番組で、ドリフとかバカ殿とかが放送されていた。「あぁなんかきっと、これが当時のお茶の間のど真ん中にあったんだろうなぁ」ということを感じた。何というか、誰がみてもわかりやすい笑いだったし、普通におもしろいところもたくさんあった。
時代を感じて古臭く見える点があるのはもちろんで、それに、当時も今も笑いの好みは人それぞれなのは変わらない。でも彼らの芸は確実に「笑いのスタンダード」みたいなものを形成したんだと思う(笑いの歴史のこと全然知らないから想像に過ぎないけど)。
彼らの手で「スタンダード」が確立されたからこそ、サブや、カウンターが生まれている。「シュール」なんてのも、「スタンダード」という前提があるからこそ生きているものだ。
こんな風に、中心から外したり、逆の発想をしたりするのは簡単で(簡単というと語弊あるけど)、無の場所に「中心」を作り上げることが如何に難しいことか。膨大な時間もかかるんだろう。
古い、ダサいと避けるだけでは無く、「スタンダード」を確立してきたことに対して心の底から敬う心を持ち、その軌跡を研究して今に役立てるべきなのだ、と思う。そうした結果、物事の「中心」が時代とともに移り変わっていくのだと思う。
また、例えばこれが事業であるなら、永久に「スタンダード」あるいは「発明的存在」であり続けることを考えなければならない。一辺倒、箇条書き的運営では飽きられることが明白なのだから、変わり続けなければならない。もしかしたら人間は大体が天邪鬼だから、「スタンダードであると感じさせない」ということも、とても重要なのかも知れない。
いま流行りの「どうぶつの森」をプレイしながらテレビを観つつ、そんなことを考えた夜だった。
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