文学フリマ東京・完売御礼!/もぐら本2制作裏話〜編集長の才に焦がれ妬んだ男の話〜
こんにちは。もぐら本制作チームのヒロコです。去る2021年5月16日(日)文学フリマ東京にて、わたしたちが制作した「もぐら本」を販売してきました。
おかげさまで、たくさんの方にもぐら会ブースに立ち寄っていただき、『もぐらの鉱物採集2 インターネットの外側で拾いあつめた言葉たち 二〇〇〇ー二〇二〇』は、当日分は完売いたしました!ひとりでも多くの方のもとにもぐら本が届いたこと、とても嬉しく思います。
文学フリマで見かけた方、またはこの記事で興味をもってくださった方、継続してインターネット販売もしております。どうぞご利用ください。
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文学フリマでは、著名人ではない「普通の人の20年間のインタビュー」にどんな魅力があるのか、読んだ人にどんな思いをもたらすものなのか、できる限り伝えたいと思い、展示ポスターや言葉選びも制作チームで時間をかけて話し合いました。そこでメインのコピーにしよう、と決めたのがこちら。
「前向きじゃなくても、力強くなくても、私たちの人生は進んでいる。」という言葉は、制作チームのひとりである「愛だの恋だの言うおっさん」さんが、チームに参加するまでの思いを綴る文章の中で書いたものなんです。
(「愛だの恋だの言うおっさん」さんは、こんなすてきなエッセイも書いています)
もぐら本2編集長のエミコさんの書くエッセイの力強さに憧れ、妬んでもいたという「愛だの恋だの言うおっさん」さんが、制作チームに加わるまでのお話。ぜひ読んでみてください。
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教養どろぼう
もぐら会、というオンラインサロンに入って一年半が経とうとしている。この会はエッセイストの紫原明子さんが主宰している「他者との会話を通して、自分と世界とを“自分自身で”掘り深めていくための集まり」(もぐら会HPより抜粋)だという。
私はそんなコンセプトをよく知らないまま、紫原さんに自分の書いたものを見てもらえるチャンス、ともぐら会に入会した。紫原さんのエッセイは身の回りの日常のできごとを描きながら返す刀で読み手の盲点に光を当てるようなまなざしで描かれており、何気なく読んでいてもハッとさせられることが多かった。私も彼女のように、誰かの心にざらざらとした引っ掛かりの残る文章を書きたいと思い、もぐら会『書くことコース』入会した。
また、入会半年ほど経ってようやく最初の原稿を提出した頃には、コロナ禍を機にリモートでも行われるようになった『話すことコース』にもたまに参加するようになった。こちらは「お話会」という集まりで、ただ順番にその日の体調と一ヵ月の出来事を話し、他の人の話も相槌を打たず静かに聞くだけという会で、素直に話し黙って聞くことを実践しながら、自分を掘り出していこうとする集いだった。
入会して全く原稿を書けなかった私だったが、自己嫌悪に苛まれ退会するか悩みながらも半年後にようやく最初の一本を仕上げた。原稿自体の出来は本当にひどいものであったが、一本目を提出して初めて他のメンバーの原稿を読む心持ちになった。どの人の文章もみな聡明で、恥ずかしくて自分の書いたものを取り下げたくなりそうな中、私の浮ついた寝ぼけ顔の横っ面を引っ叩いたのが「結婚がゴールだったエミコ」さんの書いたエッセイだった。
エミコさんが本気で結婚がゴールだと思っていた頃に試行錯誤、七転八起しながらそれでも現実を冷静に見つめてどこかに進もうとしていた自分の姿を冷徹なほど客観視して描いた筆致はペーソスに溢れていて、結婚なんて地球の反対側の騒々しいカーニバルのような他人事に感じていたゲイの私にとっても、可笑しみだけでなく共鳴する部分の多い素晴らしいエッセイだった。
原稿を書き続けるにつれ、私の文章にも私にしかない良さはあるはずだと思えるようになっていたが、彼女の書く文章にあって私のそれにはない決定的な何かがあるとも感じ始めていた。そしてそれは突き詰めて考えると、以前より薄々自分でも感じていたコンプレックスでもあるのだが、私には知識でも技術でもなく圧倒的に教養というものが欠落しているという結論に至った。私は教養とは、学びと経験に裏打ちされた一本通った背骨のようなものだと信じていて、彼女の文章はどんな軽みのあるものであってもそれがびくともしないように見えた。私のような八方に浅い共感を集めるような文章にはない、芯のある教養が欲しくて僻んでいたりもした。しかし当たり前だがそんな教養、簡単に得られるものではない。でも私はそれを努力せず都合よく手に入れたかった。
そのように考えているとき、もぐら本の第二弾をエミコさん編集長のもと制作する計画があり、その企画チームを募っているとの知らせを聞いた。もぐら本とは、もぐら会にて作成された本で、第一弾は昨年、もぐら会の別のメンバーが“誰とも同じではない私が、誰とも同じでない私のままでいることを、ただ許されたいだけ”ともぐら会メンバーがリレー形式でエッセイを綴ったもので、前述の「お話会」を書籍でやってみよう、という試みだった。今回作成する第二弾は、無名の一般人である私たちもぐら会メンバーにこの二十年間を語ってもらい、極力編集を行わない抜粋にて構成するインタビュー集。それを知った私は迷わず企画チームとして参加することに手を挙げた。以前より本を作るということに興味があったこと、第一弾のときは原稿を一本も書けないままで実質もぐら会に参加できておらず、もぐら本にも寄稿できなかったことに悔いが残っていたためなのだが、私にはその他にもう一つ狡猾な考えがあった。
「この本づくりを通して、教養というものを盗みたい。」
教養がそう簡単に手に入らないなら、もう盗むしかない。一子相伝ではないけれど、師匠の後ろにそっと立って技を盗む駆け出しの職人の気持ちでこっそりと企画チームに潜り込んだ。
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さてこの原稿を書いている今日(2021年4月30日)現在、圧倒的な編集長の手腕と書き手語り手さんの力で完成まで秒読みとなりました。私はと言えば制作作業に追いつくのに必死で教養どろぼうの浅はかな目論見はどこへやら、相変わらず愛だの恋だのお腹痛いだのいった教養からは遠い文章を書いています。しかしこの本の企画チームの一員として制作に関わらせてもらい、聞き手語り手両方としてインタビューに参加する中で、人から話を聞くということの侵襲性、お話しいただいた語りを取捨選択することの困難さ、訊きたいことと踏み込みすぎないことの匙加減等々多くの感じることがありました。いつも明るく賑やかなあの人も、クールに飄々と生きているように見えるあの人にも当然のようにこれまでたくさんの物語があり、そこに光が当たった瞬間の輝きをどのように捉えるのも聞き手、読み手次第だと。私が語り始めた自分の物語も、同じように面白く読んでもらえればいいなと思っています。
「家、ついて行ってイイですか?」「ポツンと一軒家」「ドキュメント72時間」「アイツ今何してる?」......私は何か功績をあげたわけでも特別な何かを持っているわけでもない一般の人を対象にしたドキュメンタリー番組がとても好きです。取るに足りない(と思われているだろうな、と思っている)私たちが暮らすさまを垣間見るのはとても心強い。たとえそれが前向きに力強く進んでいこうとしている姿でなかったとしても。
もう少しすれば私の手元に美しい装丁の正本が届きます。これを手にしたとききっと、私は十七人分の人生の断片が手元にある安堵感を手にするでしょう。そして時折これをめくってはそれぞれ違う場所で同じ二十年間を生きていた人生を思う機会を得ることになると思います。知らない人の人生を思うこと。そのことがいつか、自らの教養となる触媒たり得たらいいなと今は感じています。
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