棒と理不尽

「理不尽なことで怒られる」といえば、例えば学校のアホな教師とかにやられた覚えがあると思う。
私の理の方が正しいのに……!と怒り泣いたりする。
 
国語の時間の「自由に詩を書いてごらんなさい」という課題に、先生にいかに理がなかったか、理のないことで怒られるやり場のない憤りを原稿用紙にぶちまけたら、先生に褒められた。
あの先生は捨てたもんじゃなかった、と今は思う。
 
ただ、理は変わるので、理不尽も変わるのだなあ、と思った。
そう思ったきっかけは「82年生まれ、キム・ジヨン」の読書会だった。
 
・ジヨンさんの境遇は普通
・特にひどいとは思わない
・ジヨンさんの受けてきた仕打ちは我慢できることだ
とナチュラルに思っている気配の感想があったことに、私はとても驚いた。
 
私自身は、ジヨンさんのくらってきた体験は私のものでもあり、ジヨンさんと同じように、ことあるごとにモニョッとした気持ちになり、その場でベストと思われることを探り、選んだ挙句に詰む、というあたりまでそっくり、とおもって読んだ。
国の違いとかは、読んでいる途中から吹っ飛んだ。
幸いにして盗撮だけは今のところないが、知らないだけかもしれない。
 
つまり「理」の違いなのだ。
#kootoに関しても 、G20のサニタリーボックス撤去問題についても、どうも通じないな?という一群の人々がいて謎だったのだが、前提としている理が違うのかもな、と思った。
 
ギャー、サニタリーボックスまで撤去しやがって、事前に言え、と私なら思うだろう。
しかし、撤去を決めた人の中には、生理中の女性は常にいて、血で爆発しそうなナプキンを持って歩くことを前提に暮らしている人はごく少数派なのだ、ということを知っている、あるいは配慮すべきだと思っている人がいなかったのだ。
(いつでもジップロック持ってるよ?何か問題がある?っていう反論の方が驚いたけど)
 
理が違えば、そりゃ理不尽も違うな、と思ったので、理不尽だ!!という怒りの表明は無駄な時があるかもしれない、まずはお互いの「理」を確かめる話をすると、解決しやすいのではないだろうか。
相手が対話に応じてくれる場合に限るが。
 
ベビーカーを押して歩いていた女性が通りすがりの男性に腹を殴られた、というツイートを見かけた。
ツイートなので、その男性は実在したのですか?という林先生案件の可能性は否定できないのだが、事実だと仮定して考えてみる。
 
ベビーカーで電車に乗る女性はけしからん派の意見を摂取

ベビーカーを押している女性にムカつくのは許されることだ

ベビーカーを押している女性を殴ってもいい
  
という論理の展開があったかもしれない。
新たな「理」の爆誕である。
ポリコレ棒、という言葉があり、ものすごくわかりやすいのだが、この場合は「ベビーカーの女性を殴ってもよい棒」を手に入れてしまった誰かがいたのだ。
 
着物お直しおばさんとかもそうだが(「伝統にのっとっていないといけない棒」の使い手)、ある種の人々には「理」はとても教条的に作用し、棒を振り上げることに簡単にすりかわるのだなあ、と理不尽について考えて見た次第。
棒はよくブーメランに変形しているので、自在な武器である。

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