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不思議の国的代理代理冒険譚

あらすじ
物語論を専攻する大学教授、樽橋功太。ある日彼は、大学の中庭で言葉を話す人間大の家守と出会う。「功太さん、娘さんの危機です」そう告げる家守に連れられて、中庭の井戸へ落ちて行く功太。気がつくとそこは、世にも不思議な国だったー。娘と距離を感じるようになった中年男性が、ひょんなことから和風アリスの世界を彷徨い始める、妖しく愉しい冒険譚。物語にあなたは何を求めますか?

「家守と井戸」

 一人の女学徒が誰もいない教室で机に伏し、馬里亜納海溝よりも深い眠りに沈んでいる。教科書や手鏡、筆記具に携帯電話等々が雑多に詰め込まれた肩掛け鞄を枕代わりにして。陽は傾きかけ、いよいよ二度と訪れない今日という日とおさらばしようとしている。しかしながら、女学徒は起床する気配がない。誰かを待っているのか、ただ単に眠いのか。彼女が眠っている理由を知る者は彼女以外に知る者はいない、今のところ。

 男は急いでいた。時刻は午後四時十二分四十七秒。何としてもこの報告書をあと三十七分で仕上げ、七分で印刷し、三分で提出場所まで全速力で駆け、十三秒で提出するのだ、と。そういった計算は早い癖に行動に移行するのが遅い。いつも遅い。

 大学構内には、便宜上「中庭」と呼ばれる、底の見えない濁り切った池をたたえる粗末な空間があった。そこに設置されている腐りかけた木製の長椅子に座り、みっともなく伸びきった雑草と、自由を謳歌する種々雑多で色とりどりな昆虫たちを眺めながら、男はこれからの人生と身の振りようを思案していた。男の名前は楢橋功太。最近娘が口をきいてくれない大学教授である。専攻は物語論。生を受けて半世紀を越えたというのに、未だ対人関係の悩みに悩んでいることに深いため息が出そうになるのを危うく抑え込み、代わりに欠伸をした。

 ぽわん

 功太の口から泡が出た。唾でもなく鼻提灯(はなちょうちん)でもない。泡だ。石鹸水でしゃぼん玉を作ったときのような見事な泡が功太の口から飛び出てきた。その光景は誰かが見ていたら一生なんとなく覚えているくらいには衝撃的だった。
功太はあまりにも泡なその泡を見て泡を喰った。あわあわ。

 ぱちん

 大きく弾けたその泡の中から、鳥打ち帽を被った人間大の家守が現れた。家守は着地して大きく伸びをすると辺りを見回し、功太を見つけるなり言った。
「あなたは功太さんですね。急ぎましょう。娘さんの危機です」
 功太は唖然として大口を開けるのが精一杯だった。常識を超えた出来事に圧倒され、報告書の提出のことなどは頭の隅深くに追いやられ、家守に手を引かれるがまま走り出していた。

 中庭には二羽鶏がいる。大学の事務員は、それぞれに鵜鶏(うけい)と鴣鶏(こけい)と名をつけたが、当の本人でさえその二羽を判別できていない。その二羽は放し飼いされており、特に誰が躾けたわけではないが決して中庭から出ることをしない。大学側はなぜこの鶏が放し飼いされるようになったのか、誰が放し飼いし始めたのか把握していない。つまりアウトローチキンズなのである。ちなみに卵も産まないので学食に使用するための鶏卵の仕入れを減らすこともなく、大学にとってなんの恩恵もない。そんなアウトローな生き方をする彼らが絶対近づかないのが中庭に設置された井戸である。この井戸は大学設立当初の1865年から存在しており、大学側は「文化財」という体のいい撤去回避という戦法でこの井戸を無視し続けている。噂ではこの井戸に引き摺り込まれた女学徒がいたとかなんとか。学生連中の中には肝試しと称してこの井戸を真夜中に覗いたりしている者もいるらしい。

 功太は物語論の研究者ではあるが、怖い話はめっぽう弱く、この手の都市伝説も耳に入れたくない小心者だった。そのため、家守がこの井戸へ飛び込んで行った様を見た時は肝が冷えた。しかし、功太は同時に好奇心が旺盛だった。いつもなら近づくことすらない井戸を覗きこむことさえできたのだ。既に枯れ井戸だと思っていたので陽があるうちに井戸の底が見えなくなることはないと考えていた功太だったが、実際に見えた景色は、まるで深淵だった。影とはまた違う闇が、井戸の奥に無限を湛えて広がっている。

 こけっこう。

 決して井戸に近づくことはなかったアウトローチキンズがいつの間にか功太の足元に来ており、飛ぶためではない羽をバサバサと振りながら甲高い声で鳴いた。驚いた功太は井戸の淵にかけていた手を滑らせ、井戸を覗き込みすぎた上半身を引くことができずに頭から井戸へと落ちていった。

「四畳半の四つの襖」

 功太は落ちていく。闇の中を。
 まずは死を覚悟した。底知れぬ井戸に真っ逆さまに落ちたのだ。いつか底に着いて首をへし折るに違いない。
 次に鶏を恨んだ。一石二鳥、立つ鳥跡を濁さず、鳩に豆鉄砲。鳥にまつわる諺はいくつもあるが、鶏を恨んだからといって罰が当たる、というようなことわざは無かったはずだ。功太はとことん鶏を恨んだ。これまで食べてきた唐揚げの数を数えながら恨んだ。唐揚げを食べている時の幸せに罪はない。むしろ感謝しているくらいだ。功太は鶏を恨むのを止めた。
 そして家守を思った。奴は何者だ。なぜあんなに図体がでかい。どこから現れた。どうして自分は奴に必要とされている。疑問しか頭に浮かばず、落ちていくだけの功太に助言を与える道連れはいなかった。
 最後に飽きた。あまりにも長い。長すぎる。落ちる時間が長すぎる。感覚的に一時間くらいは重力に引かれ続けている。重力に引かれ続ける限り、必ずいつかは底に着くはずである。早く着いてほしいが、その時は自分が自分でなくなる時ではないか。そう思うとこのまま落ちていく方が幾許かましかも知れない。しかしこのまま落ち続けるのは、つまりは死と同義ではないか。何もできず、誰とも関われない孤独。どうやら自分は死んだようだ、と功太は考えた。
 その時、周りに様々なものが浮いてきた。布団、海象(セイウチ)の縫い包み、功太と娘が写る写真の入った写真立て等々。
「これが走馬灯か」
 功太は思わずそう呟いた。しかしどうやら走馬灯では無いらしかった。落ちゆく功太の眼前に四畳半の畳が見えてきたのだ。

 ぺちゃ。

 一時間も落ちてきた最後の音とは思えない着地音だった。功太はしばらく自分に伸し掛かる重力の重みを存分に味わい、そして頭を上げて周りを見渡した。四畳半の部屋は四つの襖で囲まれていた。襖にはそれぞれ「牡蠣の間」「芋虫の間」「猫の間」「兎の間」と表札が提げられ、表札に書いてある生き物の絵が描かれていた。
「これはつまり、"アリス"だな」
 功太は読者同様、自分が『不思議の国のアリス』を下地にした世界に迷い込んだことを自覚した。
「だとすると、奴は白ウサギか。そして…なんでこんな親父がアリスなんだ」
 なんでこんな親父がアリスなのかは先を読めば分かるとして、功太は一つ一つの襖に手をかけた。
 牡蠣の間、開かない。
 芋虫の間、開かない。
 猫の間、開かない。
 兎の間、開かない。
 どの襖もまるで施錠されたように開かない。
「鍵があるはずだ。アリスだと机の上に鍵が置いてあった」
 功太は机を探したが、そもそも四畳半しかない部屋に何も置いていないことは自明の理だった。功太は四畳半における半の部分に胡座(あぐら)を掻いて座った。
「お手上げだ。鍵がないんじゃ話にならない」
 ぶつぶつと文句を垂れる功太に牡蠣が描かれた襖から声がかかる。
「鍵で開くものとも限らない」
 続いて襖の芋虫が。
「そうとも。それに鍵がかかっているとも限らない」
 次に襖の猫が。
「襖があるとも限らない」
「あんたら、喋れるのか」
 功太の問いかけには答えない彼らだが、襖に描かれた全員の眼が功太を見つめている。その光景はまるで目目連であった。功太は背筋が凍った。
 そして最後に襖の兎が言った。
「襖は襖の形をしているとは限らない」

 ぱかっ。

 四畳半の半の部分が下に開き、功太はそのまま四畳半の外に放り出された。落ちた先で重力が九十度ほど回転し、落下したはずが、地面を滑ったような格好で功太は地面に横たわっていた。そこは、まるで近所の公園を巨大化した遊園地のような場所だった。辺りでは砂場で使うようなシャベルやらゴムボールやらが阿波踊りだか三叉踊りだかを踊っている。中心にあるのは公園の目玉である秘密基地のような複合型遊具だった。その遊具の上では和太鼓を叩く烏の姿があった。
 まるで理解が追いついていない功太は、その光景を呆然と眺めていた。すると目の前に先刻の家守が現れた。
「いたいた。どこへ行っていたんですか。さあ急いで」
 家守は周囲の狂乱へ一瞥もくれずに、踊り狂う公園に忘れられたものたちの間をすり抜けていく。走っているわけではないのに異常な速さで進んでいく家守。功太は夏祭りのような密度の高い状況に足を取られて追いつくことができず、また家守と離れ離れになってしまった。
「あいつは僕を連れて行きたいのか、迷わせたいのかどっちなんだ」

「蛙の道連れ」

 功太は、妻の遥希と友人を介して知り合った。友人と言っても、大学時代に一方的に功太のことを気に入り、付き纏っていただけだったが。そんな奴のことなので、厚かましくも功太の将来のことを心配し、功太は流されるままに遥希と会うことになった。それは逢引きと言うにはあまりにもお粗末だったが、遥希は気に留めていない様子だった。功太は、なぜ自分のような者と時間を過ごすのが苦痛ではないのか聞いた。これまで功太は逢引きはおろか、誰か二人でどこかに行くという経験がなかったので、ひどく不安だった。すると遥希はこう打ち明けた。
「私は自分のこと以外さほど興味がないので、これまで他人と親密な関係を築いたことがないのです。ただ、周りの人たちは私のことを私以上に心配してくださっていて、一度お会いしてみようかと思いまして」
 功太はそんな遥希に親近感を覚え、その後間もなくして交際が始まった。功太は有頂天だった。

 家守を見失った功太は公園街を抜け、丘を登った先にあった看板に目を止めた。
        ↑ 
       ”未来”
   ←”逆”  ・  ”あっち”→
         ”右”
        ↓

「なんだこの看板は」
 功太は足を止めて暫く考えた末、唯一それらしい”あっち”へ向かうことにした。四畳半の部屋から滑り出た時は昼だったはずが、気がつくと日もすっかり落ち、夜になっていた。これは長い時間公園街を彷徨ったわけではなく、本当に一瞬で夜になってしまっていたのだった。
「極端な世界だな」
 独りごつ功太に暗闇から声がかかる。
「減り張りがあっていいじゃないか。夜は長いほうがいい」
 功太は辺りを見回したが誰もいなかった。功太は身震いした。

 しばらくして、枝垂れ柳が延々と連続する途方も無い一本道に出た。なぜかこの一本道だけ街灯に照らされたように明るい。その突き当たりに茶室のような建物がぽつねんとしているのが米粒大に見えた。
「随分遠いな。次はお茶会か?」
 この道に出るまでにすっかり歩き疲れた功太は深くため息をついた。齢五十代半ばにして、この冒険は厳しい道のりであった。立ち止まって腰に手をやり、空を仰ぎ見た。月はなく、月を分割したような天体がまばらに空に散っていた。

 息を整え、ふと横を見ると牛車が止まっていた。少しは楽ができるかと近づいてみると、残念なことに車を引く牛は見当たらず、功太は少し小躍りした気持ちが余計に落ち込むのを感じた。刹那、牛舎の前面に功太の顔ほどはあろうかという眼が開かれ、次いで口が大きく開き、功太はびっくり仰天し、牛車に食べられることを覚悟して目を力強く瞑った。
「乗ってくかい」
 話しかけられた。なんとも低く落ち着いた声で。功太は恐る恐る目を開くと、恐ろしい顔は変わらずそこにあったが、食べようという気配は全く感じられなかった。功太は腰が抜け、へなへなとその場に座り込んだ。
「お、お願いします」

 茶室までの長い道のりで、功太は娘のことを考えていた。幼い頃から功太は、現実よりも面白い物語に心奪われ、友人と遊ぶ時間や運動をする時間、恋をする時間を全て、物語の世界に浸るという時間に充ててしまった男である。そうして生きてきてしまった反動で、現実世界での人との関係を築くのに難があった。端的に言うと空気が読めない。遥希以外との人間と親しくなれた試しがなかった。しかし、遥希と結婚して生まれてきた娘は、これまで感じたことのない感情を功太に想起させた。娘の考え、感受性、話し方に功太は激しく共感した。まるでもう一人の自分と話しているかのようだった。娘との関係性は、功太が生まれて初めて一から成功に至った友人関係だった。
 娘の名は江希(こうき)。現在高校二年生である。

 功太は、この世界から帰ったら必ず江希にこの物語を語って聞かせようと心に決めた。
「どうして彼女は口をきいてくれなくなったんだい?」
 牛車に乗って一本道を揺られながら進む功太に、どこからともなく話しかける声がした。
「誰だ?」
 車内を見ても、当然誰もいない。牛車から顔を出して上を見ると、穴の空いた山高帽を被り、腕を頭の後ろに回して柳の上に横たわる蛙がいた。
「蛙?」
「ゲロゲロ」
「僕が考えていたことが分かるのか?」
 蛙はいたずらっぽい笑みを浮かべ、闇夜に姿をくらませた。
「漏れてたからさ」
 忽然と姿を消したと思えば、蛙は功太が座る牛車の向かいの席に突然現れた。功太は驚いて顔を牛車に戻した。段々この世界で起こる超常現象に慣れてきた功太。
「なに?無意識に独り言になってたか」
「いや違う。漏れてるのさ。ほら」
 蛙は、功太の頭からいつの間にか伸びて空を漂っていた巻物を掴んだ。
「ここに全部書いてあるさ。江希が生まれた時のことやら初めて喋った言葉やら…」
「読むな!」
 功太は蛙の手から巻物を取ろうとしたが、ひょいと躱された。
「いいじゃないか。これを娘さんに伝えてやれば喜ぶぞ」
「・・・江希は僕に失望してしまったんだ」
 功太は窓枠に肘をついて顔を手に預けた。
「娘さんはどう思ってるかな?今の君のことを」
「うるさい!」
「君はまだ人と付き合うのが苦手だね。まったく。暇は本当に潰せるわけじゃないし、時間は包丁で刻めないものだよ」
 蛙はふわふわと漂いながら牛車の外に出て行き、やがて消えた。

「迷戸端亭での宴」

 茶室の入り口には木の断面に店の名前を書いた看板が立てかけられていた。
「食事処 迷戸端亭(めどはたてい)」
 功太は喋る牛車に礼を言って下車した。
「ありがとう。助かったよ。お礼は」
「礼はいいさ。次会う時に俺が困ってたら助けてくれ」
「わかった。そうするよ」
 牛車はゆっくりと動き出し、やがて見えなくなった。牛車を見送った功太は、茶室に向き直り、引き戸に手をかけた。

 がらりら。

 入り口は石畳の玄関になっていた。上がり框(かまち)には和服を召した女中が立っていた。笠を被り、「歓迎」と書かれた布を顔の前に垂らしているので顔は見えない。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
 女中は玄関の先に広がる廊下の奥を手で示し、ついてくるよう促した。功太は女中に導かれるまま、建物の中を進んだ。外見からは想像できないほど、茶室の中は構造がぐにゃぐにゃしており、功太はその中をずいぶんと歩いた。功太はきょろきょろと建物内を観察しながら歩いていたが、ふと前を見ると先を歩いていたはずの女中が姿を消しており、代わりに襖の絵が描かれた襖が鎮座ましましていた。そろそろと開けてみると、そこは巨大な宴会場だったが、その規模に見合わぬ参加者の少なさによって異様な光景となっていた。よく見ると座敷の奥の方で、酔い潰れた唐傘に眼鏡をかけた狸が、枡酒を空注ぎしているのが見えた。
「まあまあ飲みねい」
 功太は適当に空いている座椅子に座りその様子を見守った。酔い潰れた唐傘の後ろの壁には、奇妙な短歌が飾られていた。
「唐傘の破れし恋と昼一つ 一つじゃ無い昼 そこかしこかし」
 どうやらこれは唐傘を慰める会だったらしい。
「傘なんてまだこの世にいくらでもあらぁな」
 そう言いながら狸は席を立ち、まだ残っている酒を求めて長い机に用意された酒瓶を物色し始めた。
「折れた傘、錆びた傘、忘れられた傘に濡れた傘。おっといけねえ。濡らしちゃあ駄目だよな」
 げらげらと玉のように笑い転げる饒舌な狸とは対照的に、依然として机に伏している唐傘。そこへ先刻神隠ししたと思われた女中が、功太のいる逆側から酒樽を持って部屋に入ってきた。顔の布の文言が「酒樽」に変わっていた。女中が持って来た酒樽へ嬉しそうに飛び込む狸。再び消える女中。ふと唐傘が顔を上げて功太の方を見た。
「やい、冷やかしなら帰ってくんな」
 唐傘は充血し切った目を潤ませながら功太に喋りかけてきた。
「何を冷やかせばいいので?」
 功太はこの状況に少し余裕が出て来た。
「オイラは相合(あいあい)に振られっちまったのよ」
「はあ」
「そして昼は一つじゃねえのよ」
「はあ?」
「ところで、あんたは何者だ?」
「僕の名前は樽橋功太だ。大学教授をやっている」
 凄まじく長い机の端と端で話しているので怒鳴り合うくらいの声量となっている二人を余所に、狸はざぶざぶと酒樽で身体を洗ったりがぶ飲みしたりしていた。
「教授!はんっ!ご偉い身分だこって。何を教えてるんでい」
「物語論だ。私は各国の物語の共通性を通じて、人間がなぜ物語を求めるのか、その根源を探っている」
 唐傘は少し功太に興味があるようで、話を降って来た。
「例えばどんな物語を扱ってるんだ?」
「…言っていいのか?」
「悪いのか?」
 功太は『不思議の国のアリス』の名前を出すと、この世界にただならぬ影響を与えてしまわないか心配だった。もしあなたの人生が、既に存在している物語に酷似していると言われた時のことを考えてみてほしい。アイデンティティが揺らがないだろうか。私は自信ない。
「いや、僕はいいんだが、言ってしまうと君たちの存在を否定しかねないんだが」
「俺を否定すんのか!?相合傘に振られちまったばっかの、この可哀想な俺を!?」
 水浴びのように酒樽でざぶざぶやっていた狸が適当に相槌を挟む。
「なんてやつだ」
 功太は一度思いとどまったが、言ってみたらどんな影響が出るのかという好奇心が勝った。
「いや、まあ、その、なんて言ったらいいのか。不思議の国のアリスとか…」
 功太の言葉を聞くや唐傘の目が座り、懐かしい思い出に浸るような顔つきに変わった。
「おお。ワンダーランドの連中か」
「知ってるのか?」
「ああ。随分昔のことだがな。あの国が誕生したからこの国も誕生したんだ。自己複製とかなんとか。細え話は俺にはわからねえが、この世に傘が色んな種類あるように、おかしな国も色んなところにあるってこった」
「それはつまり、細胞分裂か?不思議の国は自意識を持って増殖している…?」
「さあな。詳しい話は煙管(きせる)野郎に聞いてくれ。彼奴(きゃつ)の方がその辺のこと詳しく知ってるからよ」
「煙管野郎って?」
「まだ会ってないのか。まあいずれ出会うだろ。さあもう寝かせてくれ。菊座が緩んできた」
 唐傘は、功太がこの部屋に入ってきた時と全く同じ姿勢になって寝息を立て始めた。狸は未だ浴び酒をしている。功太が座椅子から立ち上がり、襖の絵が描かれた襖を開けて座敷を出ると、そこはぐにゃぐにゃの廊下ではなく、どこか見覚えのある神社の境内だった。そして境内の階段には、男が功太を睨みつけて座っていた。

「物語と世界の成り立ち」

 柄悪く境内の階段に股を開いて座り、功太を睨みつけている男は、煙管を吸っており、後頭部が長かった。肌は土気色をしており、ただならぬ妖気を垂れ流していた。功太は男に近づき、正面に立った。
「あんた、この世界の仕組みを知ってるらしいな」
 男は煙管を大きく吸い込み、紫色の煙を吐き出した。
「まだ分からないか」
「分からない?いや、さっき唐傘に言われたことでちょっとした仮説は出来たが、ちょっとあまりにも突飛だ」
「言ってみろ」
 男はもう一度煙管を吸い込んで煙を吐いた。功太は少し言葉をまとめてから話し始めた。
「ここは、ルイス・キャロルが創作した物語の亜種だ。僕はアリスの役割、あんたは青芋虫の役割を担う存在。実体として存在し得ない物語が意思を持ち、生命の原則に従って自らの存在を確定させるために自己増殖を繰り返した。その結果、この世界も生まれた、ってところか?」
男は功太をじっと見つめた。
「半分だな」
「半分…」
 悩む功太はいつの間にか身体の大きさが半分になっていることに気づいた。
「おい、なんで身体が小さくなってる?」
「お前がこの世界を正しく理解すれば元に戻るだろう」
「正しく理解…半分合ってる…」
 功太はここへ来てからずっと感じていた違和感と、それが導く可能性について話し始めた。
「アリスは作中で、自分が思い描いた不思議の国に迷い込んだ。歌う花や喋る猫。アリスの想像を基にした登場人物たちに出会った。でもここにはどちらかというと僕の苦手な存在がたくさんいる。顔のついた車やら喋り出す襖やら。まるで妖怪だ。そう、家守だ。あいつが僕をここへ連れてきた。娘の危機だとか言って。つまり・・・」
 男はまたさらに深く煙管を吸い込んで、功太の言葉を繋いだ。
「つまり、この国はお前のために作られたものでは無い」
 そう告げると、煙管の男は煙の中へ消えていった。境内に一人残された功太は、煙管の男が座っていた階段に腰掛け、思案した。ここが江希の作り出した国だとしたら、自分が迷い込んだ理由はなんだ。そもそも人の想像や夢に他人が入れるものなのか。あの家守はどこへ行った。功太は自分一人では答えに辿りつかない問いを次々と生み出し、堂々巡りを始めてしまった。

「お困りのようだね」
 うなだれている功太の周りを蟻がぐるぐると廻っている。すると蛙が、蛇を肩に担いで功太の前に現れた。
「またお前か」
 蛙は慣れた手つきで木を組み、石を叩いて火を起こし、蛇を木の棒に串刺しにして焼き始めた。
「そんな邪険にしなくても。で、どうだい。何か進捗は」
「進捗も何も、僕は今この物語のどの辺りまで来たのか検討もついてないよ」
「だろうな。今のあんたの頭は・・・空っぽだ」
 功太の頭から出ていた巻物を蛙は再び掴んで舐め回した。
「覗くなって・・・舐めるな!気色悪い」
 蛙は巻物から手を離し、蛇の串焼きに集中した。
「娘の想像の中にいる気分はどうだい」
「変な気分だ。それに、なんだか申し訳ない」
「遠慮するな」
「お前が言うな」
「俺もこの世界の一部。つまり、あんたの娘の一部さ。だから俺が言ったことは江希が言ったようなもんだ」
 捌いた蛇を串に刺し、焚き火で炙る蛙。蟻はまだ功太を中心として廻っている。
「江希を知ってるのか」
「ああもちろん。この世界の奴らは全員知ってる」
 功太は深く溜め息をついた。
「そもそもなぜこうなったんだ」
「なにが?」
「なぜ僕は娘の想像に入り込んでる。本来この世界は江希のために作られたはずだろ。江希がするはずだった冒険だ。なんで僕が」
「物語ってのは不思議だよな」
 蛙は、食い気味に功太の話を遮った。
「本来なんの繋がりもない二つの事象の間に、人が勝手に事象を足して繋がりを持たせる。幽霊の正体見たり枯尾花。その連続が物語だろ」
 焼き上がった蛇を見て舌なめずりし、大きな口で喰らいながら得意顔で功太の方を振り返る蛙。
「人の頭の中で出来た物語は、やがて言葉や文字や絵として紡がれ、他人の頭に入り込む。入り込んできた物語はもうそいつのもので、解釈という名の咀嚼が行われる。そうなったらもうその物語はそいつのものだ」
「・・・僕の論文か」
 蛙は元々大きな口を限界まで開き、嗤った。
「だから疑問なんだろう。今この世界はお前の影響を受けていない」
「その通りだ」
「その理由(わけ)を知りたかったら、知ってる奴を知ってるぜ」
 蛙は蛇を平らげ、ついでに功太の周りを廻っていた蟻を自分の口まで誘導し、ごくんと胃袋の中へ連れて行った。
「だがそれなりの覚悟が必要だ。ここから先は今までのあんたじゃないと太刀打ちできない」
 げぷぅ、と曖気(あいき)を吐く蛙。
「今までの僕?」
「よし、じゃあいただくぜ」
「ちょっと待て!僕を食うのか?」
 食事を終え、功太が最初に見た時の倍ほど身体が膨れ上がった蛙は、未だ通常の半分の大きさの功太を丸呑みした。

 功太は気がつくと、江希の眠る教室にいた。正確にはその教室を遠くから見ていた。
「江希!」
 真っ暗な空間に浮かぶ江希の教室に近づこうとするが、功太自身も浮いておりじたばたと手足が空を切るだけだった。
「江希!!」
 功太は必死に、机に突っ伏す江希に問いかけるが返事はなかった。
「江希さんは死んではいませんよ。生きてもいないのですが」
 聞き覚えのある声が功太を捉える。振り向くと、あの家守が立っていた。
「生きてない?どういうことだ」
 功太は家守に近づき問いただした。
「江希さんの心は今非常に危険な状態なのです。このままだと帰って来られなくなる。身体上生きてはいますが、心は既に囚われてしまっているのです」
「なんの話をしている?」
 家守は功太を見下ろした。
「あなた縮みましたね。とにかく、ついてきてください。今度こそ逸れないように」
 家守は功太を自分の背中に乗せ、四足歩行で走り出した。

「我利我利登場」

 家守の背に乗って辿り着いた場所は、功太にとって見覚えがありすぎる斎場だった。功太は斎場に着いた瞬間、胸が苦しくなった。
「大丈夫ですか?」
 様子が変わった功太に気づいた家守が声をかけるが、功太はすぐに言葉を返せなかった。
「・・・なぜここへ来た」
「それは、ここが目的地だからです。アリスはハートの女王の所へ行き、裁判にかけられるでしょう。いわばここは、ハートの女王の城です」
 確かによく見ると、斎場の形はしているが、装飾や材質は斎場とは違っていた。功太は家守の背中から降りた。
「それで、僕はここで何をすればいい」
「江希さんを助けてください」
 功太は勢いよく家守を振り返った。
「江希?江希がここにいるのか」
「はい。しかし、囚われています。我利我利によって」
「が、ガリガリ?」
「そうです。我利我利は、この世界の住人の一人でした。自己中心的な考え方を持っており、時折他の住人からは毛嫌いされていたのですが、ある時、この国を治めていた江希さんの座を奪ったのです。それは、江希さんの心が弱った時でした。その隙を狙って我利我利は江希さんを捕らえ、この城のどこかに幽閉したのです」
「ちょっと待て。江希はこの世界にずっといたのか?」
「はい。心は常にここに在りました。意識が有る時と無い時がありますが」
「ここはつまり、夢の中ということか?」
「いえ、夢とはまた別の存在です。あなたは物語論の先生ですよね?江希さんからお話はよく聞いていました。ここは江希さんの創作した世界。物語です。我々はこの世界で生まれました。ですが、江希さんは別のところで生まれました。現実というところです。江希さんはこの世界に干渉はできますが、常に意志を持ってこの世界で行動できるわけではありません」
「なるほど。なんとなく状況は理解した。つまり今江希は、江希の心はここに囚われてしまっていて、強制的にこの世界での意識を持たされているから、このままだと現実世界の江希は目を覚ますことができないんだな?」
「要はそういうことです。あっ、隠れて!」
 家守は功太を抱えて物陰に隠れた。城の門が開き、中から花札の形をした兵士が現れた。
「奴らは我利我利の手下、花札兵です」
 功太はそっと物陰から様子を窺った。
「トランプじゃ、ないんだな」
 花札兵は城壁の周りに敷かれた砂利を一つ一つ丁寧に整えている。
「何をしているんだ?」
「我利我利は度が過ぎた几帳面なんです。砂利が一つでもずれた位置にあると癇癪を起こします」
「ん?じゃあさっき僕らがいたところの砂利はぐちゃぐちゃなんじゃあ・・・」
「あ」

 べんべんべん。

 琵琶の音が鳴り響き、我利我利を乗せた神輿が何役もの花札兵を従えて帰還した。功太は気づかれないように神輿に乗った我利我利を見た。すると、そこには見慣れた顔があった。
「あの顔・・・江希?」
 我利我利の顔はまさしく江希そのものだった。
「おい家守、なんで我利我利が江希の顔なんだ」
「それは、同じ顔じゃないとなりすませないからです」
「それじゃあ見分けがつかないぞ」
「大丈夫です。我利我利は本物の江希さんと比べて、なんかちょっと大きいので」
 実際、我利我利は体長二百二十五糎(せんちめーとる)あり、江希の約一点五倍の建端(たっぱ)だった。
「ほんとだ」

「傘の手助け」

 我利我利の一行が門の前に到着し、門の中からさらに花札兵が列を成して現れた。再び神輿は動き出し、門をくぐろうかという時、我利我利が声を上げた。
「止まりなさい!!」
 神輿と花札兵の一団は動きを止め、我利我利は神輿から飛び降りた。我利我利は城壁の周りに敷かれた砂利を見て目の色を変えた。
「なぜこんなに砂利が乱れているの」
 近くにいた花札兵は恐怖で震えていた。我利我利は答えを待ったが返事はなかったので一段と声を荒げた。
「答えなさい!」
 多くの花札兵は縮こまっていたが、一人のカス札兵が、か細く声を上げた。
「さ、先ほど、井中蛙(いなかわず)が、蛇を捕らえようとこの辺りを荒らし周り、しゅ、修正を試みたのですが、間に合わず・・・」
「”こいこい”だ」
 我利我利が感情無くそう告げると、我利我利の左右にいた種札兵が、必死に助けを乞うカス札を連行していった。そして我利我利は神輿に戻り、行進が再開された。

 花札兵の姿が見えなくなってから、功太と家守は口を開いた。
「あいつが独裁政治をしているのか」
「はい。しかもこの城だけでなくこの国全体を手中に入れようと画策しているのです」
「そうすると、江希を城から連れ出すだけでは、この国の状況は変わらないんじゃないか?」
 家守は一瞬考え込んだ。
「確かにそうですね。江希さんを助けたところで、我利我利が支配を継続するならば江希さんの物語にはならず、現実に戻れません」
「なら、どうすればいい」
 二人はその場をぐるぐると回りながら考え込んだ。すると家守が膝を打った。
「裁判を開きましょう」
「裁判?」
「そうです。本物の江希さんを法廷に呼んで証人尋問をすればいいのです」
「なるほど。して、花札兵は元々江希の手下だったのか?」
「はい。それがどうかしましたか」
「いや、いつも江希の近くにいたはずの奴らが偽物に気づいていないんだ。江希を本物の江希であることをどう証明すればいいかと思って」
「う〜ん」
 再び二人はその場をぐるぐるし始めた。
「お困りのようだね」
 二人が振り向くと体の大きさが元に戻った蛙が城壁の上でくつろいでいた。
「またお前か」
「おや、感謝の一言もないのかい」
「感謝?」
「俺が蛇を捕まえるのにこの辺の砂利を乱したおかげであんたらは我利我利に捕まらずに済んだんだぜ。で、囚われてる娘さんを助けるんだって?」
「そうだが」
「そいつぁよかった。俺も奴の独裁は面白くねえと思ってたとこだ。じゃあ、俺は使えそうな連中を集めてくるぜ」

 蛙がその場を去り、家守はずっと気になっていたことを功太に問いかけた。
「それで、江希さんはどうして心を弱めてしまったので?」
「聞いてないのか?」
「はい。ずっとお側におりましたが、理由(わけ)を聞いても答えてくれず、少しずつ弱っていく彼女を私はただ見ているしかありませんでした。その後我利我利が江希さんの仮面を着けてこの城を占拠した時も、江希さんの名を騙って本物の江希さんを捕らえた時も無抵抗で、あっという間に座を奪われたのです。この城は元々何にも使われていませんでした。」
「その時花札兵は?」
「彼らはそこまで記憶力が保たないので、すぐにこの騒動を忘れ、江希さんの顔をしている我利我利を江希さんだと信じ切っています」
「そうか」
「教えてください。江希さんの心が弱った原因を」
 功太は少し口を噤んだ。自分にも辛い、あまりに辛い出来事だったからだ。そして心の中で整理をつけ、ようやく口を開いた。
「江希の母で、僕の奥さんでもあった遥希が亡くなったんだ。ちょうどこの城と同じ外観の斎場で葬式をした。」
「なんと、遥希さんが!」
「その頃から江希とはあまり話をしなくなってしまったんだ。遥希の分も自分がしっかりして江希を育てなくてはいけないと力が入りすぎていたのかもしれない。段々と江希が自分から離れていくのを感じたよ」
「その隙を我利我利に狙われたんですね」

「よう旦那。傘貸すぜ」
 功太と家守の頭上から声がした。二人が上を見ると、いつかの唐傘が降りてきた。
「蛙から話は聞いた。この城に侵入するんだってな」
「ああ。まさかあんた飛べるとはな」
「おかげで、一度振られた相合傘にも協力してもらえることになった。まだ脈ありだぜ」
 功太が唐傘の後ろを覗くと、もう一本落書きで書いたような見知らぬ傘がいた。
「どうも初めまして。相合傘と申します」

 我利我利城は城壁は高いが覆われてはいない。空中からの侵入は容易である。それぞれ功太は唐傘に、家守は相合傘に掴まってふわふわと侵入した。潜入する人数は少ない方がいいという功太の判断で、唐傘と相合傘には場外での待機を命じた。
 城の内部は装飾や置いてある物などは我利我利仕様になっているものの、基本的な構造は遥希の葬儀を行なった斎場と変わらなかった。そのため功太はおおよその配置を頭に思い浮かべた。
「功太さん、大丈夫ですか」
 家守は功太が精神的に苦痛を感じていないか心配だった。
「ああ、今は悠長に悲しんでいる場合じゃないからな」
 本当は胸が裂けるほどの痛みを解き放ってしまいたい気分だったが、江希のために抑え込んでいた。
「私はどこに何があるのやら見当もつきませんが、当てはありますか」
「そうだな・・・」
 花札兵がそこかしこを警戒している中動き回るよりは、当たりを付けて移動した方がいいと功太は考えた。そして遥希の葬式の日のことを振り返り、その日に江希が泣いていた場所を思い出した。
「ここはあくまで江希の創り出した世界だ。必ず江希の影響が出ているはず」
二人は移動を始めた。

「再会」

 花札兵の動きに注意しながら二人が辿り着いたのは、離れの倉庫だった。
「遥希の葬式の日、ここで江希はうずくまって泣いてたんだ」
「そうなんですね。どうやらこの扉自体は施錠されていないようですし開けてみましょう」

 がらりら。

 重い横開きの扉を開けると、短冊札兵二人と目が合った。
「何者だ!」
 とっさに功太は口から出まかせにほらを吹いた。
「この城に囚われている娘に面会しにきました。ここにいると聞いてきたのですが」
 短冊兵は少し警戒を解いて功太に聞いた。
「面会か。どの者に対してだ」
「江希様の偽物です。私はその偽物の弁護を依頼されて来たのです。次の裁判に向けて。隣の者は私の助手です」
 家守を指してなんとか場を取り繕う功太。
「裁判だと?その者に対して裁判は予定されていないはずだが」
「つい先日決まったことですからまだ公にはなっておりません」
「そうなのか。しかし、面会の予定も聞いていないぞ」
「本当に弁護人か?」
 再び警戒度を上げた短冊兵を見て、かくなる上は武力行使を検討した功太だったが、短冊兵の後ろから蛙が現れ、二人を丸呑みしてしまった。
「げふう。こいつら旨くないんだよな」
「お前どこから」
「まあそれよりも、娘さんを助けてやんな」
 功太は短冊兵の机から牢の鍵を取り、奥へ進んだ。家守は一度立ち止まり、蛙に向かって複雑な表情をした。
「これで御破算になったと思うな」
「思わねえさ」
 家守は功太の後を追って走り去った。

 倉庫の奥へ進むと無数の牢が現れたが、どれも中身は無く空っぽだった。
「江希!!どこだ!!」
 声を張りあげる功太に返事はなかった。家守も追いつき、江希を捜索する二人。牢は碁盤の目のように並んでおらず、まるで迷路のように不規則に設置されていた。大きさもまちまちで、象が入りそうなものから蝿しか入らなそうなものまで揃っていた。
「見当たりませんね」
 息を切らした功太はその場に座り込み、牢を背に少し休んだ。
「・・・お父さん?」
 もたれかかった牢の中から声がした。振り向くと、江希がいた。
「なんでここにいるの?」
「お前を探しに来たんだ」
 功太は安堵の表情で江希を見つめた。

 功太は牢にかかった錠を鍵で外し、江希を外に出した。
「細かい話は省くが、お前を連れて裁判を開く。本物の江希はお前だ、と。そして我利我利を追放してこの国の実権をお前に戻す」
「江希さん、功太さんは必死であなたを探しに来ました。この国を取り戻しましょう」
 江希は少し考え込んだ。
「私が本物だっていう証明はどうするの?」
「「あ」」
 助けることに焦点を置きすぎて、裁判での証明方法を編み出すことを忘れていた二人。そんな二人を見て江希は少し笑った。
 次の瞬間、花札兵が大挙して牢に押し寄せて来た。あっという間に三人は捕らえられ、我利我利と蛙が現れた。家守はカエルの姿をみるや、血相を変えて蛙に掴み掛かろうとしたが、花札兵が取り押さえた。
「お前!また裏切るのか!!」
「何を言う。俺は元々こっち側の配下だ」
「黙れ爬虫類ども」
 我利我利が一歩前に出て三人を見回した。
「この者たちは全員”こいこい”じゃ」
 沸き立つ花札兵たちを他所に、功太が家守に問いかける。
「なあ、今までなんとなく文脈で理解したつもりではあったんだけど、”こいこい”って何?処刑的なこと?」
「まあ言ってしまえば、合成、ですかね。花札兵の場合、カス札が二人そろえば短冊兵一人に合成されます。花札兵以外が”こいこい”をされると、見たことのない生物兵器が生まれます」
「もし僕らがされると、とんでもなさそうだな」
「そんなことより!さっきの話だけど、証明はどうやってするの?」
「江希さん、その前にまず裁判を申し立てねば」
「そうだった」
 功太は立ち上がり、我利我利に向かって叫んだ。
「やい、我利我利!お前は偽物だ!本物の江希はここにいるぞ!」
 三人の”こいこい”に湧き立っていた花札兵が一瞬静かになり、ざわつき始めた。
「あれ、ほんとだ、江希様が二人いる」
「なんかこっちの江希様でかいな」
「我利我利って誰だっけ」
「そもそも”こいこい”ってなんだっけ」
 ざわめく花札兵たちを見て流れを掴んだ功太は一気に畳み掛ける。
「ここに裁判を申し立てる。どちらが本物の江希で、この国を治めるのに相応しいのはどちらかはっきりさせようじゃないか」
 我利我利は大きな体躯を目立たせるように功太を見下ろした。
「なぜ私が貴様の言うことを聞かなきゃならん」
「砂利が一粒でもずれてるのが気に喰わないのに、自分の偽物を放置しておいて気にならない訳がない。ここで白黒つけたらあんたもすっきりするし、花札兵の士気も上がり、この国の統治に貢献するんじゃないか?」
 功太の話を聞いて眉をひそめる我利我利。
「江希様、俺もそう思いますぜ。ここで厄介者を始末するのは簡単だが、単純に処理するよりも利用した方がいい」
 蛙は宙に浮いて我利我利に耳打ちするように話した。我利我利は再び三人を見回し、江希に顔を向けた。
「よし、では裁判だ」

「中庭裁判」

 我利我利城には中庭があり、裁判を行うにあたって法廷が作られていった。裁判長は蛙、裁判官は光札たちが務め、被告席に我利我利、原告席に功太が座った。
「さて、これより、原告樽橋功太による被告江希様への裁判を始める。原告は被告を偽物の江希様であると申告している次第です。その内容に齟齬はないですね?」
功太は黙って頷いた。
「では、なぜ偽物だと?」
 功太は立ち上がった。
「ここに本物の江希がいるからです」
 江希は証言台に移動した。
「なぜ本物だと?」
「私が父親だからです」
 揺れる法廷。
「静かに!原告が江希様の父親であるという証拠は?」
「江希が一番よく知っているはずです」
 蛙は顎に手をやり少し考え込んだ。
「ではこうしましょう。江希様なら知っているはずの功太さんについての質問をして、功太さんには予め答えておいてもらう。その答えと一致していた方が本物の江希様ということに」
 我利我利が顔を赤くして立ち上がった。
「井中!貴様裏切ったな!!」
「どうしたのです。本物の江希様なら難しくないはずです。正解すればいいだけですよ」
 蛙はにまにまと我利我利を見下ろしていた。
「では、功太さんの出身地はどこでしょう!解答を手元の半紙にお書きください」
 さらさらっと書く江希に対し、頭を抱える我利我利。
「さあ、書き終えたでしょうか。解答を見てみましょう。証人は”所沢”。被告は”横浜”と解答しました。さあ、どちらが正解なのでしょうか、原告お願いします」
 功太は”所沢”と書いた半紙を掲げた。
「証人見事正解!原告は偽物であることが証明されました」
 我利我利は自分の前にある机を叩き、勢いよく立ち上がった。
「意義あり!こんなもの口裏を合わせればいくらでも」
「では、原告が問題を用意してください。それなら文句ないでしょう」
 蛙は我利我利を遮るように口を出した。我利我利は自分に矛先が向き、動揺した。
「・・・」
「どうしました?」
「・・・いす」
「はい?」
「好きなアイス」
「好きなアイスですね?功太さんの好きなアイスはなんでしょうか。解答を半紙にお書きください、どうぞ!」
 蛙は乗りに乗っていた。
「さあ、書き終えたでしょうか。解答を見てみましょう。証人は”パピコ”。被告は”ガリガリくん”と解答しました。さあ、正解を原告お願いします!」
 功太は”パピコ”と書いた半紙を高々と掲げた。
「正解は”パピコ”!証人またも正解です!被告はやはり偽物であることが立証されてしまいました」
 我利我利は力無く椅子に座り込み机に突っ伏した。
 傍聴席の花札兵が騒がしく話し始めた。
「やっぱり偽物だったのか」
「俺たちは本物の江希様を捕まえてたのか」
「”こいこい”されちまう」
「でも”こいこい”するのは江希様の偽物だ」
 裁判官である光札たちも動揺していたが、彼らは判決を下さなくてはならない。
「どうする?」
「顔は一緒だが、今のであっちにいるのが偽物なんじゃないかと」
「そうだな。そうしよう。もう”こいこい”はうんざりだし」
 光札たちは頷き合い、蛙の方を向いた。
「どうやら判決が出たようです。さあ、判決を見てみましょうお願いします!」
 光札たちは一斉に”追放”という半紙を掲げた。
「満場一致で”追放”が下されました。ということで原告の勝訴、被告は追放です!これにて閉場!」

 功太と江希は喜び合い、我利我利に歩み寄った。机に突っ伏していた我利我利は顔を上げずに話し始めた。
「ワンダーランドはアリスを求める。そしてアリスに選ばれる条件は”道に迷うこと”。しかし迷いすぎて自分さえ見失う者は、この世界での力を失う。私は私を見失っていなかったが、道にも迷っていなかったのでアリスに選ばれることはなかった。何者でもない自分を自覚しすぎて、迷うことすらできなかった。勝ち取るしかなかったんだ。アリスになればこの世界を意のままにできる。それなのに、あんたの親父も道に迷っていた。だからアリスとしてこの冒険に出ることができた。井戸に落ちることができた。親子揃ってアリスになるとはね。そして親父は自分まで見失っていなかった」
「どうしてアリスになりたかったの?」
 江希が尋ねると我利我利は江希の仮面が剥がれかかった顔を上げた。
「…誰かと関わっていたかったんだ」
道に迷わないとそういう思考になるのか、と功太は膝を打った。
「あんたにアリスは向いてないね」
「わかってるよ。出て行くさ」
 江希は我利我利の肩を掴んで目を見据えた。
「出て行かなくていいよ。その代わり、二度と独裁なんてしないでね」
「それだけ?」
「そう、それだけ」
 我利我利は一度ゆっくりと瞬きし、涙をこぼした。
「これが自己中心的でないことの良さよ」

 法廷が解体される中、家守は蛙に近づいた。
「やい、お前ここまで読んでたな?」
「なんのことだ」
「自分が我利我利に取り入ってれば、いざって時に反抗できるって」
「なに、全部綺麗に展開を予想した訳じゃないが、そういうことにしておこう」
「裏切りはするのか?」
「裏切るも何も、俺は真っ当なことしかしてないぜ。状況だけ見りゃあお前の方が裏切りもんだ」
「調子のいい奴め」

 花札兵は法廷を解体し切ると、江希の元に整列した。
 先ほどの裁判では裁判官を務めた光札兵たちが先頭に立ち、膝をついた。
「江希様。どうか我々を罰してください。我々四十八枚おりながら一枚も偽物を見破れませんでした。記憶力が乏しいとはいえ、この為体では示しがつきませぬ」
光札兵の中の一人が言い切ると、後ろに並んだ全ての兵が膝をついた。
「いいのよ。元は私のせいだし」
「江希」
 功太が江希の後ろから声をかける。
「いまいち全てを把握してる訳じゃないんだが、僕にも大分責任があると思うんだ。すまなかった」
 功太は蛙に言われたことを実践してみることにした。
「江希が生まれた時な、僕はすごく嬉しかった。初めて喋った言葉は”はる”だった。大きくなって、物語が好きになって、僕とは違う視点で解釈してて面白かったんだ。江希と話すのが。でも遥希がいなくなって、僕は江希と関わることに力が入りすぎた。遥希の分も江希のことを気にかけてやらなきゃって思って。でも江希はこれまでの僕でいてほしかったのかもしれない。さっき家守と牢の前で話してた時に笑っただろ。あの時思ったんだ。最近、江希笑ってなかったって」
 江希は功太のことをじっと見つめ、抱きしめた。
「じゃあ帰ろう」
 江希がそう言うと、花札兵は前進し始めた。江希と功太と家守はそれぞれ用意された神輿に乗り、蛙はその周りを漂いながらついてきた。

「我が家へ」

 しばらくして辿り着いたのは、見慣れた我が家だった。
「ここは」
「私の城です」
 江希が得意げに言った。中に入っていくと、あの茶室のように、空間が拡張されていた。
「すごいな」
 功太は感嘆の声を漏らし、辺りを見ていた。
 神輿から降り、場内を案内する江希。その顔は小さい頃と変わらず、嬉しそうだった。

「さて、一件落着だが、僕はどうやって帰ればいい。江希はここを創った人だから自由に行き来できるだろうが」
「お父さん、どっから来たの?」
「井戸だ。大学の中庭にある。あの家守に連れられて」
「へ〜。あそこと繋がったんだ」
 家守がするするっと功太の側に近寄ってきた。
「功太さん、私が帰り道を案内いたします。逸れないように気をつけてください。あなたは迷いやすいですから。そういえばあなた、元に戻りましたね」
 家守に言われて、功太は自分が元の大きさに戻っていることに気づいた。

 家守の背に乗って江希の国を眺める功太。
「まさか自分がこんな目に遭うとはなあ」
「こんな目、とは?」
「いやあ。僕は大学で物語論を研究しているんだが、それはあくまで人が創作した物語を対象とした研究だった訳だ。しかしいざ自分が物語に入り込んでしまったとなると、物理学やらが絡んできてしまって手に負えない気がするんだ」
「手に負えないなら目を逸らせばいいのでは?」
「目を逸らす、か。それも一つだな」
 功太は遠い目になっていく。
「物語は伝染する。それを読んだ人、観た人、聴いた人の中で育っていって、やがて現実にその影響が出る。物語は実体として存在しないけど、活力を持ってる。とてつもない活力を」
 やがて功太は目を瞑った。

 一人の女学徒が誰もいない教室で机に伏し、馬里亜納海溝よりも深い眠りに沈んでいる。教科書や手鏡、筆記具に携帯電話等々が雑多に詰め込まれた肩掛け鞄を枕代わりにして。陽は傾きかけ、いよいよ二度と訪れない今日という日とおさらばしようとしている。しかしながら、女学徒は起床する気配がない。誰かを待っているのか、ただ単に眠いのか。彼女が眠っている理由を知る者は彼女以外に知る者はいなかった、さっきまでは。

 がらりら。

 教室のドアがひとりでに開いた。風が吹き抜け、女学徒の髪を撫でる。

 男は眠っていた。大学の中庭と呼ばれている粗末な空間にある井戸を背もたれにして。池の蛙が鳴いても起きる気配がない。中庭には二羽鶏がいる。鵜鶏と鴣鶏と名付けられたその鶏は男が伸ばした足元で草を啄んでいた。やがて喧嘩を始め、甲高い声で鳴き始めた。

 こけっこう。

 その声にはっとし、その男樽橋功太は目覚めた。時刻は午後四時十二分四十九秒。手元には書きかけの報告書があった。確か今日が提出日だったはず、と日付を確認すると、提出日は来週の日付だった。どうやら提出日を一週間間違えていたようだ。その報告書は、物語論の研究会で”物語の与える影響とその実例”を議論した際のものであった。功太は、この報告書に書かねばならない事項が山ほどあったので、一週間猶予ができてホッとしていた。ふと、ポッケに手を入れると、花札が入っていた。柳に小野道風(おののみちかぜ)。十一月の光札だった。

 江希の腕に家守が這っていた。その冷たい感触は江希を目覚めさせるのに十分だった。江希は大きく伸びをし、腰を鳴らした。江希は、心が軽くなっているのを感じ、肩掛け鞄の中を探った。携帯電話を取り出し、電話をかける。

 ぶー。ぶー。ぶー。

 功太はまだ黄昏ていた。頭の整理がついていなかったのだ。そうしていると、花札が入っていたポッケとは別のポッケに入った携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「あ、もしもしお父さん?」
「おお、江希か」
「今晩何食べたい?私作るよ」
「そうだな〜。じゃあ」
 功太はふとアウトローチキンズと目が合った。
「唐揚げで」
「ん。わかった。何時ごろ帰ってくる?」
「すぐかえるよ」

 電話を切り、立ち上がる功太。大きく伸びをし、一応自分の大きさを確認する。よし。縮んでない。むしろ大きくなったように感じる。

 ぺちゃ。

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