宝石箱の住人
触れれば簡単に砕けそうな硝子のピアス。
細かい曲線が連なった金の指輪。
ぐにゃりと曲がる薄いバングル。
どれもほんの少しの不注意で壊れてしまいそうなものばかりで、でもカエデさんの周りはそういったもので溢れている。
「わざと身につけて緊張感を持って生きなきゃ、私はダメになるんだと思う」
カエデさんが初めて俺の家にやってきたとき、彼女はひどく不安そうな顔をしてそう言った。俺より年上だけど、ひょっとしたら泣き出すんじゃないかと身構えた。でもカエデさんはそのとき以外はなんでもないような顔をして、飄々としている。
「ねぇ」
と、カエデさんが言った。寝息のような声だったので本当に言ったのか自信がなかった。彼女は俺の脇腹に顔を埋め、身を縮こませ丸くなっている。湾曲している背中から浮かび上がる恐竜のような背骨が、暗闇の中でもよく分かった。
返事をする代わりにカエデさんの方に寝がえりを打つと、彼女の大きな瞳が俺を見つめていた。闇と闇の隙間から、じっと様子をうかがっている。梟のようだなと時々思う。
「起きていたのね」
カエデさんは言い終わると、すみっこに追いやられていた毛布を手でたぐり寄せ、もたついた動作でそれにくるまり、小さな口で短いあくびをした。つられてあくびをすると、湿っぽく気だるげな空気と、擦れた肌のはちみつの匂いで肺が膨らんだ。
「どうしたんですか?」
「シャワー借りようと思って」
「あぁ、どうぞ」
「あと、これ。外してほしかったの」
彼女は自分の首に手をかざした。銀色の細いネックレスがほんの少しだけ揺れる。やさしいピンク色の石がカエデさんの鎖骨の辺りで静かに息づいている。
ローズクオーツという名前の石らしい。数時間前にカエデさん本人から教えてもらった。彼女はいろいろな石を持っている。それは指輪だったり、ピアスだったり、姿を変えてカエデさんの身体のいたるところに散りばめられている。彼女は石の持つ由来や、エネルギーなどにはあまり興味がないらしい。ただ、美しく危うげであまりにも脆いところが好きらしい。だから薄く頼りない硝子細工や、すぐに千切れてしまいそうなブレスレットなんかも好き好んで付けている。そしてそれが人の手で外される時、一種の快楽に似た感覚に襲われるのだとカエデさんは言っている。
確かに繊細なものたちが人の手によってカエデさんの身体から離れてゆくとき、彼女はいつもよりほんの少し無防備になる。ぼうっとして夢見心地の時もあれば、うっかり口が滑ったり。お風呂でうたたねしてしまったり、クッキーのかけらをこぼしたり。いつもよりぼんやりとする。決して抜けてるわけじゃない。普段気を張っているぶん、身体か少し休憩しているのだ。
「はい、お願い」
カエデさんは起き上がると、寝転がっている俺に背を向けて座った。俺も重たい体を起こす。彼女が髪を右肩に流すと、左の小さな耳たぶと滑らかな首筋の曲線があらわになる。もう何度も見ている光景なのに、どうしてこんなにも目が奪われるのかが不思議だった。首に手をかざし、チェーンをゆっくりとなぞると、くすぐったかったのかカエデさんは肩をくすめた。
「もう。ふざけないでよ」
「すいません。暗くて、よく見えなくて」
「嘘つき」
「嘘じゃないですよ。女性のネックレスって普段触らないから、慣れなくて」
「かわいいのね」
「変なこと言わないでください。電気つけてもいいですか?」
たずねるとカエデさんは小さく頷いて、毛布をもう一度はおり直した。俺は立ち上がるついでに散らばった下着を見つけ出し履いて、電気のスイッチを押した。突然の光の眩しさに目を細め、周りが見えるまで何度か瞬きをした。目の奥がじんわりと痛む。カエデさんは両手で顔を覆っている。ベッドへ腰を下ろすと、カエデさんは手を外し、薄目で僕を見た。
「私あんまり暗いのも嫌いだけど、この瞬間も嫌い」
「俺も苦手です」
言いながら、彼女の首に手を伸ばす。チェーンは糸のように細く、つまんでもあまり実感がない。もどかしくなるほど小さな金具に爪を引っかけると、輪っかだったものが一本の線になり、彼女の首から音もなく外れる。その瞬間のカエデさんの表情はあまり変わらない。でも、まとっている空気が少し柔らかくなる。
カエデさんは彼女にしか分からない快楽の余韻に浸り、俺はその様子を黙って見つめている。まあるいオデコに、つるりとしたまぶた。小さな唇。うなじにはホクロが二つある。そういったものをまじまじと観察していると、決まって彼女が先に口を開く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ネックレス、ケースに仕舞っておいてくれる?」
「任せてください」
「心配ね。なくさないでよ」
笑いながらそういって彼女は不釣り合いなほど大きな毛布を羽織ったままバスルームへと歩いて行った。
そのうしろ姿を見送って、広くなったベッドに身体を倒すと流れ出るシャワーの音が聞こえてきた。彼女の白い肌の上を水滴が滑っているのだろう。さっきまでそこに自分が指を這わせていたのだと思うと少しだけ妙な気分だった。
カエデさんは俺の恋人で、歳が十三離れている。
それに関して俺は何とも思っていないのだけれど、彼女はひどく気にしている。だからまだ一緒に出掛けることも少ないし、彼女は俺に多くを望まない。しつこく何かをせがんだり、強要したり、甘えたり、怒ったり、もちろん涙を見せることもない。決して深くは踏み込んでこない。いつだって私の元を去ってってもいいんだよ、と余裕な表情をわざと見せたりもする。でもそれがどれだけ悲しい嘘なのか、痛いくらいに伝わってくることがある。
触れれば簡単に砕けそうな硝子のピアス。
細かい曲線が連なった金の指輪。
ぐにゃりと曲がる薄いバングル。
どれもほんの少しの不注意で壊れてしまいそうなものばかりで、でもカエデさんの周りはそういったもので溢れている。
そしてきっとその中には、俺も含まれているのかもしれない。
踏み込みすぎたら壊れてしまう、そんな脆い関係なのだと勘違いしている。
その勘違いを彼女から外してあげたい。今はまだ頼りないかもしれないけれど、いつか絶対に。そして彼女のまとう空気が柔らかくなればいいのにと思う。
手を伸ばしてベッドサイドの引き出しを開ける。手を入れて指で撫でると、どれもひんやりとしていて、不安になるほど心もとない。いくつかある硝子の箱の中から一つを取り出す。手に取った藍色の宝石箱は側面に小さな魚が数匹彫られている。その中にネックレスをねかせ、宝石箱をそっと閉じる。
二人で過ごす何度目かの夜がゆっくりと過ぎてゆく。