彼は独りで甘く眠る
握りしめていた手のひらの中で、「秘密」がぐにゃりと溶け出しはじめた。
私はそれに気づきながらも、手を開くことはしなかった。かわりに息をゆっくりと吸い込み、あいている手で筆を動かす。
私の体温で少しづつ形を失ってゆくそれは、甘いミルクの匂いを漂わせながら、彼の存在を色濃くさせてゆく。居ないはずなのに、彼が近くに居るのだと、つい錯覚してしまう。そのたびに私の心臓は小さく高鳴り、必ず痛みを連れてくる。
音のないため息をついて、私はまた筆を動かす。
飴色をのせた柔らかな筆を。
一週間ほど前。
「秘密」という甘やかな非日常が私の前に突然現れた。
それは瞬く間に私の心を奪い去っていった。それはもう唐突に。私自身が気づかないような速さで。
私はバスに乗っていた。
県で運営している普通のバス。学校がある日は、行きと帰りで利用している。あの日はテスト期間中で、乗っていたバスの中はいつもより混雑していた。学校の規則でテスト期間中は部活動が禁止されているから、校舎に詰め込まれていた生徒たちが就業のチャイムと同時に、いっせいに下校したからだと思う。
そんなぎゅうぎゅうのバスで運よく座ることのできた私は、そのままいつもと変わらず退屈な気持ちでバスに揺られていた。
特にすることもなく、バスから吐き出される人と、飲み込まれる人を交互に眺めていた。本当は窓際の席が良かったのだけれど、そこにはすでにお婆さんが座っていた。
お婆さんといっても、老け込んだ様子は見られない。背筋がすらっと伸び、半袖から伸びる腕は細いながらも弾力がありそうで、か弱さよりも強い生命力が感じられた。手は膝の上で綺麗にそろえられ、白髪はゆるく後ろに束ねられている。いかにも優しそうなお年寄りといった風貌だった。小さなバックを足元に置いているのが見える。
そこまで観察したところで、お婆さんと目が合ってしまった。
見すぎてしまったのかもしれない。私は窓の外に視線を移し、すぐに顔を前に戻した。彼女は横で私の方をじっと見つめていた。
少しして何か気づいたのかお婆さんは「あらっ」と声を出した。気になったけれど、私は身体を固くして、じっとしていた。
「ねぇ、あなた。その制服。もしかして同じ学校に金髪の男の子が居ないかしら?」
私に話しかけているのだと分かり、さすがに反応するしかなかった。目を向けると、お婆さんは私の顔を覗き込むようにして、色素の薄い茶色の瞳を見開いていた。
「えっと・・・。たしか、三年生の先輩に居たと思います・・・」
とっさに発した言葉はかすれていて、答えた後に私は軽く咳払いをした。
同じ高校で、金髪の生徒で。
彼を連想させるにはこの二つのワードで十分だった。
私の高校は規則に厳しい方でも、ゆるい方でもないと思う。ただ最低限のルールは守る。きちんと見たことはないけれど、たぶんその程度の校則だと思う。こっそりとしたおしゃれは、先生たちは黙認してくれる。ただ派手なアクセサリーや、奇抜な格好はすぐさま注意されるし、もちろん髪の毛を明るく染めるのは言うまでもなく禁止されていた。だから生徒のほとんどは生まれたままの髪の毛でいる。学校で派手な髪色をしているのは彼だけだった。先生にいくら注意されようとも、髪の毛を元の色に戻す気はないらしいと、一年生のわたしですら噂で耳にしたことがある。私自身も先生と口論している彼を何度か見かけたことがあった。
私とは一生縁のなさそうな部類の人間だった。
むしろ苦手で、近寄りがたく。学校の中での数少ない脅威の一つでもあった。
名前は何と言っただろうか。
それに、なぜお婆さんは彼のことを私に話すのだろう。なにか悪いことをされたのかもしれない。苦情だろうか。面倒ごとは嫌だな。ただの生徒で、しかも一年生の私に相談したところで何の解決にもならないというのに。
わき上がる疑問や、暗い予感を処理できずにいると、お婆さんはニコリと微笑んだ。笑い皺が深くなり、彼女の雰囲気そのものが明るく感じられた。
「そう、その子。ちょっと見た目が怖いわよね」
「はい。確かに少し近寄りがたいです」
そう答えて、私は乾いた唇をなめた。お婆さんが何のために私に話しかけてきたのか、その理由を早く知りたかった。意図をつかめないまま知らない人と会話をするのは息苦しい。恐怖すら感じる。
「あの・・・。その人に、何かされたんですか?だったら私に言うより、学校に直接連絡した方がいいと思いますけど・・・」
私が言うと、彼女は目を丸くして驚いた後、吹き出すようにして笑い出した。
「違うのよ。その子は私の孫よ。一緒に住んでるの」
「えっ、あ。ごめんなさい。その、失礼なこと言って・・・」
慌てて頭を下げると、お婆さんは笑いながら「頭を上げてちょうだい」と、私の肩を優しく撫でた。
「いいのよ。あんな恰好してるシロちゃんがいけないんだから」
あぁ、そうだ。彼の名前はマシロだった。前にクラスメイトがシロ先輩と呼んでいたのを思い出した。彼は噂の絶えない人で、クラスではいつも誰かが話題に出していた。
「でもね、いい子だからそんなに怖がらないであげてね」
お婆さんはそこで言葉を止めて、足元に置いてあった小さなバックの中に手を差し込んだ。屈み込み、小さな背中がさらに縮んで見える。
「それよりもごめんなさいね。急に話しかけたりして。歳をとるとだめね、だれかれ構わずに話かけてしまって」
「そんな・・・」
と言いかけて私は口をつぐんだ。呟きのような、少し自虐めいたお婆さんの謝罪になんて声をかけていいのか分からなかったからだ。
「お礼に良いものをあげるわ」
お婆さんはバックから手を抜き、身体を起こした。再び背筋がすらりと伸びた。なんとなく、凛とした花を連想させる人だなと思った。スズランとか、ユリのような白くて艶やかなたくましい花。
「あの子ね、あんな恰好してるのに、これがないと眠れないのよ」
お婆さんは困ったように笑いながらそう言うと、私の手のひらに「秘密」を一粒握らせた。
お礼を言おうと口を開きかけた時、バスが音を立てて止まった。お婆さんははっとしたように、顔を上げて
「あらやだ、もう降りなきゃだわ」
と、足元のバックを持った。私は椅子から立ち上がり、道を開けた。
「じゃあね、お嬢さん。あ、このことは秘密よ。人にしゃべるとシロちゃん怒るのよ」
いたずらっ子のように舌を見せて、素早い動きでお婆さんはバスを降りて行った。私はあいた窓際の席に座り、お婆さんの後姿を見送った。バスが動き出し、景色が後ろに流れてゆく。
手のひらの中を覗くと、飴がひとつ。
ミルク味の。キャンディ包みされている有名な、いかにも子供が好きなやつだった。
優しいお婆さんと、学校の不良と、ミルク味の飴と、眠れない夜と、金髪と。
どうしたって不釣り合いに思えた。
ただ、突然に訪れた「秘密」は、私の胸を少しだけときめかせた。
それから私の頭の中は、徐々に彼のことを考えるスペースが広くなっていった。どこに居ても、なんとなく彼を探してしまう。いつもだったら廊下ですれ違うのも避けるほどなのに、目が勝手に追ってしまう。
薄暗い色しかない校舎の中で、彼はどうしたって私の目を引き付けて離さない。
彼の髪は光のもとに立つと、柔らかな色を放つ。
鋭い相貌に似合わない、陽だまりのようなあたたかな光。
私にはそれがひどく淋しい色に思えた。
クラスメイトはみんな彼の髪を金髪だというけれど、目で追ううちに違うことに気がついた。金だなんてそんなギラついていない。もっと陰のある、落ち着いた、なだらかな色。
飴色の髪だと、私は思う。
大人のように伸びた身長。すらりと痩せているのに、制服から覗く腕は筋張っていて私はそれを見るたびに、平静ではいられなかった。
この狭い校舎の中で、いつだって彼を探している。
探して、目に焼き付けて。
こうしてキャンバスに描いている。
カーテンを引いた窓は、外の世界を一瞬にして覆い隠す。この部屋と、私と、彼の鱗片のようなものだけを残して、世界が消滅してしまったのだと、くだらないことを考えてしまう。
この空間で私だけが、動いている。
その他のモノは静止していた。
時間が止まっているようだった。
私自身が絵の中に居るような、この空間が心から好きだ。特にこうやってキャンバスに向かっていると実感する。だからいつも私はカーテンを閉める。
絵という、永遠に静止したものを書く時、可視化した時間の流れを感じたいとは到底思えないから。
私は、私が作り出した偽物の永遠の中で。
右手に筆を持ち、左手で「秘密」を持て余していた。
キャンバスと筆の触れ合う微かな音だけが、私の耳を優しくふさいでゆく。
意識を集中させればさせるほど、ときおり鼻をかすめる甘いミルクの香りが私の心の一部をどこか遠くへ連れて行ってしまう。いや、どこか、なんてのは嘘。そんな不確かな場所じゃない。彼のもとに引き寄せられて、囚われ、逃げれずにいる。
私の心が、私の元から離れてゆくたび、切り離された断面から、とめどなく欲望があふれ出てくるのが分かった。
彼に触れてみたい。
彼を形作る全ての輪郭に、指を這わせてみたいと思った。
わき上がる感情を止める術を持っていないから、私は溺れるような心持ちで飴色を乗せた筆を動かす。筆がキャンバスを撫でる。いつもより軽快な鼓動を、舞い上がる心を、押さえつけるように。
彼には彼女が居る。
私と同じ学年で、同じクラスで幼馴染で。
彼女から彼の話は何も聞いていなかったけれど、二人が一緒に居るのを見かけたことがある。
帰り道に手を繋いで、ときおり顔を近づけていた。曲がり角を曲がったとき、二人がキスをしていたのを私は息を止めて、ただ見つめていることしかできなかった。「秘密」をもらった三日後のことだった。
「完成したんだ」
甘い香りが揺れ、停滞していた時間が動き始める。
保たれていた偽物の永遠が崩れ出す。
振り返らずとも誰だか分かった。彼女はいつだって甘い香りを、彼の残像を、理想を、現実でさえもかき消していってしまう。
「うん」
頷いて、筆を置き、振り返る。コハルがキャンバスを覗き込んでいた。いつの間にか背後に立っていた彼女は、笑うと視線を私に移した。幼馴染の見慣れた顔だった。笑っている唇が妙に艶めいて見えた。
「この人、シロ先輩でしょ?金髪だし」
聞かれ、私はまた頷く。
「そう、不良の先輩。でも金髪じゃなくて、飴色の髪だよ」
光さえなだらかに滑り落ちてゆく飴色の髪の毛。私はそれに指を通すことすら叶わない。
「好きなの?」
そう発せられた彼女の言葉尻が震えて聞こえたのは、私の都合の良い解釈かもしれない。
今度は首を横に振った。
「ううん。ちょっと怖いけど、綺麗な人だと思って描いただけだよ。ごめんね」
謝って、少し後悔をした。
自分の非を認めるということは、良くないことをしたと自覚している証拠だった。けれど、コハルはさして気にしてないようだった。
「帰ろ」
私が言うと、コハルは机からしなやかに降りた。
「うん。あ、でも片づけは?」
「明日の朝やるからいいよ。今日はもう疲れちゃった」
背伸びをして、縮こまっていた身体をほぐす。エプロンを外して椅子に掛けた。
立ち上がり、キャンバスに向かい合う。
永遠の中に閉じ込めた彼に触れる。
まだ乾いていない絵の具が、私の指を湿らせてゆく。
コハルはきっと彼の「秘密」を知らない。なんとなく、そんな気がした。
そう思うくらいは自由だろう。
恋人になりたいだなんて大それたことは思わない。
唇を重ねたいとも、手を繋ぎたいとも。
ただ、触れてみたかった。
固く周囲を拒み、飴色の髪で己を突き通す彼の、砂糖菓子のように繊細な心に。
先生たちに反抗して、大きな声で誰かを威圧する。怖がられて手が付けられないと思われている。そのくせ彼は、日々の小さなことで、傷ついたりしているのかもしれない。だから眠れない夜が彼に寄り添っているのかもしれない。
自信にあふれている昼間の姿と、飴にすがる夜の姿を想像する。
その滑稽なほどのアンバランスさに、どうしてか胸が締め付けられる。
私が飴の代わりになれたらどれだけ良いだろうとさえ思ってしまう。
外に出ると、辺りはまだうっすらと明るさを保っていた。空には薄い色の月が浮かんでいる。もうすぐ夜の帳が降りてくる。
「わたし、先輩とキスしたよ」
コハルは空を見上げながらそう言った。その横顔が強張って見えた。
「うん」
知ってるよ。見てたもの。
私はポケットから「秘密」を取り出した。何度も溶けていたから、包装紙を外すのに手間取ってしまった。口に放り込むと、濃厚な甘さが広がった。
彼は独りで甘く眠る。
たぶん、今夜も。
それを思うと胸が締め付けられる。
家に着くころには「秘密」は跡形もなく消えてしまった。
消えて、私の想いだけが残った。
ずっと、このまま。
永遠に。