キラキラとは程遠い。9
美術室には彼以外誰も居ない。
静かにドアを開けたのに、タケオは私の気配に気づいたようで顔を上げた。夕日で彼の栗色の髪の毛が赤く染まっている。眩しそうに目を細めるので、私は日が差し込む窓際まで歩いて、そっとカーテンを閉めた。
「あ、ごめん。ありがとう」
そう言うと、タケオは表情をほころばせて笑った。付き合い始めの頃、彼はこんな風には笑わなかった。むしろ笑顔をみせる方が珍しかったのに。喋るのにだって精一杯で、すぐに謝ってばかりだったのに。今は無防備に笑っている。それを嬉しく感じている自分に腹が立ち、悲しいような苦しいようなよくわからない感情が私の中をぐるぐると渦を巻いていた。
私はそれを悟られないように、できるだけ軽い足取りでタケオに近づいてゆく。自分が今どんな表情をしているのか分からなかった。笑っていないのは確かだから、いつもみたいに少し怒ったような顔をしているのかもしれない。彼は不思議そうに私の事を見上げている。前髪が伸びて、少し目にかかっているようだった。私はそこに触れようとして、伸ばしかけた手を止めた。触ってはいけないような気がしたから。触ったら私は、たぶん、きっと、後悔することになる。
だから、言わなくちゃいけない。手遅れになる前に。
伸ばしかけた私の手がみじめに垂れてゆくのをタケオは猫のようにジッと見つめていた。
「私ね。欲しいものがあったの」
空気を噛むようにゆっくりと喋り出すと彼は視線を私の顔へと戻した。言葉の意図を探るように、首を傾け私の顔色を静かに窺っている。
「でもね、それはもうどこにもないの。大事にしまっていたのに、あっけなく崩れて、消えちゃった」
知らない女の人ともつれるようにして歩いていたイツキさんを思い出す。甘い匂いのするむなしいだけの金曜日。泣いていたお姉ちゃん。私は二人が大好きだった。お姉ちゃんの部屋でこっそりキスをしているところも、髪をなで合い微笑み会っているところも、お姉ちゃんにしかわからないイツキさんの魅力も、二人だけの秘密の目くばせも。私にとっては全てが憧れで、特別で、大切な宝物。
ぱっとしないイツキさんと、私の可愛いお姉ちゃん。はじめはヘンテコだと思っていた。でも、だんだんと、いつの日からかその違和感は薄れていった。二人の纏う別々だった空気が、絵の具のように混ざりあって一つになった時、その甘やかな色で私の世界は塗り替えられてしまった。
あの二人が持つ、キラキラとした美しい世界。私はそれが欲しかった。誰の介入も許さない、たった二人だけの満たされた国。
だから私は、いま目の前に座っているタケオを利用した。
もうこれ以上、彼を私の勝手に付き合わせてはいけない。だって憧れた世界は、もうどこにもないのだから。
「だからもう全部終わりにしようと思って」
「え?」
声と同時に彼の手から筆がするりと落ちた。床に打ち付けられた筆の、乾いた音だけが美術室に大きく響き渡る。
「あ、ご、ごめん」
タケオは大きな音を立てながら椅子を引き、床に落ちた筆を拾った。その指先は少しだけ震えていた。彼はそのまま立ち上がらずに、ぺたりとしゃがみ込んでしまった。腕で顔が完全に隠れてしまい、表情が全く読み取れない。
「だから今日で全部おしまい。気づいていたと思うけど、私タケオの事全然好きじゃないの」
吐き捨てるように放った言葉にトゲが混ざる。一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。逃げて、全てなかったことにしたい。
たった1ヵ月と少しだけ前。タケオに告白した頃の私に教えてあげたい。彼の無償の優しさに救われること、二人だけで過ごした美術室の時間のこと、キラキラとした世界はどこにもないのだということ、いま彼を傷つけていること、それに私も胸を痛めていること。すべてを教えてあげたかった。
「告白したのだって、ただの興味本位だもの。欲しいものがあったから、一人じゃ手に入れられないから、タケオを利用しようと思って、別にタケオじゃなくたってよくて、誰でも良かったんだけど、でもそれはもうどこにもないから・・・なくなっちゃったから・・・一緒に居る意味なんてないら・・・」
喋れば喋るほど、自分が何を言っているのかよく分からなかった。タケオはしゃがみ込んだまま、ただ私の言葉を黙って聞いている。表情が見えなくて分からないけれど、多分聞いているのだと思う。でも彼は何も言わない。ただ黙って、小さくうずくまっている。
そうだ、最初からそうだった。彼はずっと私の言いなりのようなものだった。私に「付き合え」と言われれば付き合うし、「放課後帰る」と言われればきちんとその約束を守った。何もかも全て、私の勝手だった。彼のことなど少しも考えていなかった。さっきまで柔らかく笑っていたタケオもずっと私に委縮していたのかもしれない。
彼は自分の意見なんて滅多に言わない。知っていた。知っていたけれど、私の口から「別れの言葉」が引き出されるのを止めようとも、抵抗することもしてくれない。そんなこと考えなくたって分かるというのに、いくばかりかの期待をしていた自分にさらに腹が立った。
私は少しの間、タケオの真っ白いつむじを見下ろしながら彼からの返答を待った。止まっていると思っていた美術室の時計がカチカチとやけに大きな音をたてて身体に響く。時間だけが過ぎていった。どれほどの間、私たちの間に沈黙が横たえていたのかは分からない。でも結局タケオは何も言わなかった。もうそれが全ての答えのように感じた。
喉が焼けるように痛かった。でも言わなきゃいけない。始めたのは私だもの。私が終わらせなくちゃいけない。
「別れてほしいの」
「いやだよ」
言い終わらないうちに、私の言葉は遮られた。
「いやだよ。僕は、いやだ。そんなよく分からない理由で・・・」
さっきまでぴくりとも動かなかった彼が顔を上げ、勢いよく立ち上がった。
タケオが私の腕を引く。彼は苦しそうな顔をしていた。私はどんな顔をしていたのだろう。もうさっきから自分のことですらよく分からなかった。タケオの急な行動に対応できなかった私の身体が、バランスを崩し倒れそうになる。それをタケオがやんわりと受け止めてくれた。
安堵を感じたその刹那、唇に熱い痛みを感じた。
絵の具の匂いが私の鼻をかすめ、あずき色のジャージが目に入った。タケオのつるりとした頬が私の目のすぐ近くにある。
噛みつくようなキスだった。
反射的に彼を突き離し、自分の唇に触れその指先を見た。赤い血がほんの少し付いている。痛みはそこまで感じなかった。少しだけ唇の表面が裂けたのかもしれない。
前を向くと、タケオの唇も少しだけ赤に染まっていた。
「あ、あれ?こ、こんなことするつもりはなかったんだ。ごめん、違うんだ。ただ別れるのが嫌だったんだ。僕、ユメちゃんが好きだから」
そう言うとタケオは薄く笑った。いつも通りつっかえながら、でも話し方はゆっくりと静かなものだった。ゾクリと背筋が震える。薄暗くなりつつある美術室に、彼の青白い顔が薄く光っているように見えた。ずっと冴えないと思っていた。どんくさくて、男らしいところなんて全然なくて、でも、なぜだろう今、彼はこんなにも美しい。
「大丈夫。でもちょっとびっくりした」
脈打つように微かに痛む唇を舐めて笑って見せたが、タケオは緊張している様子のままだった。
「あ、えっと、ごめん。その、くち痛くなかった?」
「少しだけ。でも大丈夫、血もそんなに出てないし」
「そっか、良かった・・・」
タケオは一瞬ほっとした様子を見せたが、すぐに真面目な表情になった。
「さ、さっきも言ったど、ユメちゃんと別れるの、嫌だよ」
その言葉でさっきまで詰まっていた胸の苦しみが砂のようにパラパラと流れていった。
あぁ、私はタケオの事が好きなのだ。
「僕はユメちゃんに救われてるんだ。覚えていないと思うけど、小学校の時、女子たちが僕にいたずらしようとしてるのを、ユメちゃんがたった一言で止めてくれたんだ」
何の事かすぐに分かった。小学校の卒業式の練習の日、ナツミがタケオに嘘の告白をしようと言った時だ。それで私とナツミの関係は完璧なまでにギクシャクとしてしまったが、別にどうでもよかった。あの時は、ただ憧れだったイツキさんに似ていたタケオにほんの少し同情しただけで、特に深い意味はなかったのいうのに、彼はそれを嬉しそうに話している。良かった、と思った。あの時の衝動的な行動で、今の私も救われている。
「告白された時、ユメちゃんが僕の事を好きじゃないのなんて知ってた。でも、それでも嬉しかった。その、あ、憧れの人と一緒に居れると思って。でも緊張ばっかりしてうまく話せなくて、ユメちゃんと全然釣り合わなくて、ごめん。ほ、欲しいものがあれば一緒に探すから・・・だから・・・」
「タケオって意外と強引なのね」
言葉を遮るように、思ったことを口に出すと、彼の顔がさらに真っ赤になった。
「ご、ごめん。嫌だったよね」
「いや、そんな嫌じゃない、かも」
「え??」
驚いているタケオの顔が面白い。見開かれた瞳に少し伸びた前髪が入り込みそうだった。今度こそ私はそこに触れた。
キラキラとは程遠い私の世界。
「ごめんね。誰でも良いなんて嘘。嫌いじゃないよ、タケオのこと」
笑いながら言うと、タケオもふわりと笑った。