美しい魔法。1
幼い頃は理解ができなかった。そのくらい僕たちは鏡のように近い存在で、成長するにつれてやっとお互いが違う人間だということに気づき始めた。
それから、少しずつ少しずつ言葉を交わすようになって、僕たちは感情というものを知り、そして誰も寄せ付けない、たった2人だけの世界にのめり込んでいった。
「誰も居ないから大丈夫だよ」カオリはそう言って僕の手を取る。慈悲に満ちて細く綺麗な響きを持つ声、彼女の声を随分と久々に聞いたような気がした。
月がしんと照っている。僕らは手を繋いで、お互い口を開かずに湿り気を帯びている草の上を少しだけ歩いた。闇に紛れて息をひそめている名前も知らない池のほとりに腰を降ろす。
辺りは濃い霧が立ち込めていて、なんだか全て幻のように思えた。カオリでさえ、霞んで見える。
大理石のようになめらかで、ひんやりとしている彼女の手が僕の手を強く握った。あぁ、違う。幻なんかではない。僕の世界でカオリだけがしっかりと実体を持って存在している。
「カオリ」
不安と、戸惑いを織り交ぜながら、僕は彼女の名前を呼ぶ。
「カオル」
今度はカオリが諭すように僕の名前を呼んだ。そうだ、そうやって僕の名前を呼んでくれ。それだけが僕の存在を唯一証明してるように思えた。彼女が僕の名前を呼ぶたび、僕が色濃いものになってゆく。それだけで、僕の世界が完璧なものになる。
「魔法が解けちゃったね」
ポツリと。表情を変えずカオリが言う。陶器で出来た人形のような表情に、思わず息を飲んだ。それと同時に彼女が吐き出した言葉が頭の中で反芻して、後頭部をコンクリート片で殴られたような気分に襲われる。頭の中がグラグラと揺れ、具合が悪い。
そう、魔法が解けたんだ。今朝、唐突にそれを感じ取った。そのせいで僕は、彼女の考えていることが全く分からない。こんなこと初めてだった。いつもなら、言葉にするよりも自由に、カオリが思っていることを完全に感じ取ることができた。そして同化し、共有し合う。それが僕たちの魔法。お互いを深く理解し、慈しむ。完璧なまでに美しい魔法だった。
カオリが言いたいこと、見るもの、触ったもの、感じたもの、言葉にせずとも全て僕に伝わってきた。勿論、僕の持ちうる感情の全部も、カオリへと伝わり僕たちの思考は一つになる。孤独を感じる暇なんて産まれてから一度もなかった。
どっちがこの特殊な現象を「魔法」と呼んだのかはもう覚えていない。けれど僕らはそう呼んでいる。誰がかけたかわからない魔法。解き方なんて知らないはずなのに、突然消えてなくなってしまった。幻のように。
「そうだね」
そう言った後、僕は付け足す。
「僕は今、初めて君が怖いよ」
カオリの感情が分からない。いつも感じていたはずなのに。僕の中には、もう僕しかいない。それがたまらなく恐ろしい。
僕の言葉を聞いて、カオリは悲しそうに微笑んだ。雨に滴るアジサイのような笑顔。彼女の頬が濡れてゆく。なぜ泣いているの?悲しいから?寂しいから?切ない?苦しい?ねぇ、全部教えてよ。
手を伸ばし彼女の涙に触れてみたけれど、カオリの感情が前みたいに僕の全身に響いてくることはなかった。本当に魔法が解けてしまったのだと実感し、絶望が僕の心をむしばんでゆく。けれど、どこか安心していた。
不意に、「戻らなくては」という意思が全身に湧き上がるのを感じた。身体にある全ての細胞が、戻るべき場所に戻ろうと騒ぎだす。僕の帰る場所はカオリだと決まっているのに、他の場所に行こうとしている。
絶望で思考が停止しているはずなのに、僕は喋り出した。彼女との別れの言葉を。
「カオリ、もうお別れの時だよ」
カオリが僕の首に手を回してきた。頭を横に振り、嫌だと返事をしている。彼女が首を振るたびに、太陽のようなハチミツのような、とにかくとても平和な匂いがした。カオリはいつも平和な匂いに満ちている。そんな女の子。
魔法はもう切れてしまったはずなのに、彼女の胸の痛みが僕に流れ込んで来た。ような気がした、これは紛れもなく僕の感情だった。心臓が痛い。けれど、それもだんだんと薄れてゆく。視界がぼんやりとして、霧の中に溶け込んでいるような感覚。
「今まで君と一緒に居れて良かった。君の美しい心に触れるたびに僕は嬉しかった。だからどうかこれからも、そのままでいて。正しくて清らかで純粋で居てよ。これはお願い」
カオリの頭をなでる。彼女はずっと泣いている。
「あとは大人になる前に、僕のことは忘れてよ。絶対だよ。これは約束」
自分で言いながら、ずるいなと思った。きっとこれが僕たちの最後だ。僕が今吐き出す言葉はカオリの中で一生残るだろう。魔法ではなく、呪いのように。
「あとは・・・なんだろう。沢山あって言葉にできないよ・・・」
でももう行かなくてはいけない。どこに?どこだろう?どこか遠く、幸せな場所。カオリが居ない幸せな場所なんてあるのだろうか?でも、もう時間だ。
「じゃあね、ばいばい。ずっと愛しているよ」
「まって!」
突然の僕の別れの言葉に、カオリは顔を上げた。
「行かないで・・・!」
カオリは僕の首から手を離して、きっと僕をあの宝石みたいな目で捉えようとしたのだろう。
けれど、そこにはもう僕は居ない。僕の居た場所には、濃い霧が立ち込めているだけだ。
僕の役目はもうおしまい。
さようなら、僕の愛おしい片割れ。
幻は僕の方だった。
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