キラキラとは程遠い。7
栗ご飯が好きで、牛乳が苦手だということ。すぐに謝る癖があること、跳び箱が飛べないけれど、理科と数学が得意で家庭科の授業が苦手なこと。リレーの選手に一度も選ばれたことがなくて、でも美術の賞を何度か表彰されていること。栗毛の髪の毛は触ると柔らかくて、手のひらが意外と大きいこと。美術部に所属していること。
これだけ。
私が知っているタケオのこと。
謎に包まれているわけじゃない。私がタケオに、お姉ちゃんの彼氏であるイツキさんを重ねて見ていただけだ。重ねるだけで、その違いに目を背けていた。
逃げ出したタケオを勢いのまま走って追いかけたけれど、途中で足を止めゆっくりと歩いた。考えたら昨日貧血で倒れたばかりだった。額から滲みだしてきた汗を手で拭きながら、呼吸を整える。
1階の隅にある美術室は、放課後の喧騒から隔離されているように静かだった。扉が少し開かれていて、中を覗くと独特の匂いが鼻をつく。週に1回だけ授業で訪れるこの場所に放課後やってくるのは新鮮な感じがした。
覗くとタケオは広い美術室の隅っこに一人きりで座ってるのが見えた。他には誰も居ないようだった。
大きなキャンパスに絵を描いているものだと勝手に想像していたけれど、実際は授業を受けるときみたいに普通に椅子に座り、普通に机に向かっていた。
絵筆を持った手がパレットと紙の上を行き来している。
私は音を立てないように細心の注意を払いながらゆっくりと美術室に侵入した。気づかれないように教室を大きく迂回して、タケオの背後に回り込み彼が熱心に色を載せている紙を覗き込んだ。
そこに描かれていたのは、無数のトンボだった。
色鮮やかなトンボが、白い紙の上に標本のように並んでいる。一匹、一匹に深みがあり、光を反射しているような光沢があった。彼の持つ筆が、平面なトンボに命を吹き込んでゆく。気が遠くなりそうなほど細やかな、幾何学的な翅の模様。その緻密さに私の目は自然と吸い寄せらた。
コトン。と、タケオが筆を置いた。
その音でふと現実に連れ戻される。それまで微動だにせず、彼の筆の動きに魅入ってしまっていた。心を奪われるとはこういうことなのかもしれない。
「ねぇ、それ」
「わあああ!」
声をかけると彼は勢いよく体を飛び上がらせ、そのまま直立した。ぎこちない動作でこちらを振り返る。目が合い、私だと気づくと、また更に驚いたようだった。
「ユメちゃん!?」
「何今の動作ふふっ。ビヨンッってバネみたいに跳ね上がってたよ。ふふっ変なのふふっ」
私がお腹を抱えるようにして笑っていると、タケオも口元だけを緩めて笑った。それが不気味で、また面白くて、私はしばらくまともに息ができなかった。
「なんで・・・ここに?帰ったんじゃなかったの?」
その一方タケオは、私が美術室に居るという状況をまだ把握できていないようだった。
「なんでって言われても、タケオが逃げるから。追いかけてきちゃった」
素直にそう告げると、何も言い返せない彼はバツが悪そうに口を閉じた。
彼がさっきまで熱心に筆を走らせていた紙に視線を向ける。
「ねぇ、それトンボ?」
「あ!見ないで!気持ち悪いから!」
乱雑に紙をかき集めようとする彼の手を掴む。相変わらず長袖のジャージを着ていたけれど、腕まくりをしていたから、タケオの肌に直接触れた。やっぱり彼の手は私のより一回り大きい。
タケオはすぐに動きを止めた。いや、動けなかったのかもしれない。緊張がじんわりと伝わってくる。タケオの唇が微かに震えているのが分かった。それを見てふいに思い出す。私はこの唇に触れたことがある。「つまんないの」と言い捨てたキスが、熱を帯び記憶から蘇ってくるのを感じた。
「気持ち悪くないよ!むしろすごい。本物みたい」
タケオの手を離しながら、薄っぺらい言葉を口から滑り出だす。こんな誰でも言えるようなことを言いたいわけではなかったのに。
「ほんと?」
下を向いていたタケオが顔を上げた。驚いたような嬉しそうな表情をしていた。いつものような張り詰めるような緊張感はまるでない、少し高い滑らかな声が私の耳をくすぐる。
「私お世辞は嫌いなの。知ってるでしょ?」
私は口の片方だけを釣り上げて、意地の悪い笑みを作って見せた。
「うん、確かに。そうだね」
タケオは同意しながら、柔らかく微笑んだ。
「描いてるの、別に隠さなくても良かったのに。それとも走って逃げるほど私に見せたくなかった?」
「ううん。ユメちゃん虫とか嫌いだと思って、トンボが好きって言ったら、その、嫌われると思ったから」
私はつっかえながら話すタケオをぼんやりと眺めていた。風がタケオの髪の毛を揺らしている。窓が開いているのに今さらになって気が付いた。美術室の油っぽい匂いに、夏の空気が混ざる。
校舎から隔離されるようにある美術室には音がなかった。タケオの声だけが私の耳に滑り込む。けれど私は違和感を感じていた。
彼は何を言っているのだろう。
嫌うも何も、私、あなたのことを。
利用しているだけで、別に何とも思っていない。
はずなのだけれど。
「でもね、トンボはね、全世界で六千もの種類があって、同じに見えるようなものでもみんなそれぞれ個性があるんだ」
私の違和感は、驚きによって中断された。喋るのですら私の顔色を窺うあのタケオが、自分から喋り出したのだ。
「あと翅に直接筋肉が付いているから、どの昆虫よりも素早く飛べてかっこいいし、飛ぶ宝石とか、水辺の宝石って呼ばれるほど綺麗な生き物で・・・」
「宝石?」
「そうだよ。ユメちゃんも見ればきっと分かると思う。図鑑じゃない自然に生息するトンボの美しさは本当に宝石みたいなんだ。日の当たり方で見え方が全然違うんだよ・・・。あっ、ごめん。こんな話つまらないよね」
勝手に話し出したタケオは、勝手に我に返り、いつものように黙り込んだ。私はイスを引いて、彼の横の席に腰を下ろし頬杖をついた。
「別にいいよ。面白いから」
「え?えっとじゃあ、僕の好きなトンボはね・・・」
トンボの話じゃなくて、饒舌なタケオが面白いから、という意味で言ったつもりだったけれど、しゃべっている彼は水を得た魚みたいにぴちぴちとしている。いつもはもさもさと覇気のない、乾燥しきったまずそうなパンみたいなのに。
トンボが好きだということ。
そして彼の細い指から描き出される繊細な絵がとっても綺麗だということ。
それは今日、新しく知ったタケオのこと。
私はタケオのことをもう少し知ろうと思う。イツキさんと重ね合わせてばかりではダメなのだ。私が今向き合うべき相手はタケオだ。
イツキさんとお姉ちゃんみたいに、私たちは私たちの世界を築きあげていかないといけないのかもしれない。
私には欲しい物がある。それはとても素敵な世界。