キラキラとは程遠い。8
金曜日だった。私は今朝歩いた通学路をなぞるように帰っていた。
今日はお姉ちゃんと、その彼氏のイツキさんが家に来る。私の憧れ。素敵な世界を持つ大好きな二人。私はどうしてもそれが欲しい。誰にも邪魔されないキラキラとした世界一人ではどうしても手に入れることができないから、私はタケオに告白をした。
彼は今日も部活があるようだった。聞けば部員は5人だけしかいなくて、そのうち4人は幽霊部員らしい。実質たった一人だけの美術部員。きっと今日も隔離されたような美術室で熱心に何かを描いているのだと思う。
風が強くて、吹けばもてあそばれる私の長い髪の毛が、リップを塗った唇に何度も張り付く。苛立ちを覚えながら、髪を押さえつけ、顔を上げた。くらくらするほど眩しい夕焼けに目を細める。
そして、私は動けなくなった。
あってはならない光景が私の横を通り過ぎていったから。
両足は歩くのを止めて、アスファルトが崩れ落ちるのを待っていた。これが現実なわけないもの。きっと今にもぐにゃりと視界が歪んで、現実世界に引き戻されるんだわ。だって夢だもの。こんなのおかしもの。
見開らかれた私の瞳に、その人が移り込む。
目が合い、微笑まれた。いつもと変わらない笑顔だった。困ったような、優しい笑顔。
肺から徐々に空気が抜けてゆく。手が震え、頭が考えることを否定していた。
「誰あれ、知り合い?中学生だよね?」
後ろから女の人の声がした。お姉ちゃんとは正反対のまつわりつくような声だった。
「いいや、知らないよ」
声を聞きたくなくて、私は走り出していた。けれど耳に残るそれは紛れもなく。
イツキさんのものだった。
家に帰るとやっぱり甘い匂いがした。ママがお菓子を作っている。もうイツキさんは家に来ないというのに。
二階への階段を駆け上がりお姉ちゃんの部屋を勢いよく開ける。彼女はテレビを観ていた。いや、テレビの方に顔を向けていた。視線はもっとその先、テレビを通り越して、ずっとその向こう。私にはそれが過去を彷徨っているように見えた。
「お姉ちゃん!」
荒げるつもりはなかったけれど、発した声のとげとげしさに自分でも少し驚く。お姉ちゃんはゆっくりとした動作で私の方を向いた。
「あぁユメちゃん。おかえりなさい」
その覇気のなさに胸が締め付けられた。口元はいつもと変わらない微笑みをたたえていたけれど、真っ白い顔には表情といえるものがなかった。
「ねぇイツキさんは??さっき知らない女の人と歩いてるの見たんだけど、違うよね??見間違いだよね??」
ぼんやりとしていたお姉ちゃんのまあるい瞳に涙がたまってゆく。
「そっか、見ちゃったか。彼ね、好きな人が居たんだって」
「そんな・・・もしかしてお姉ちゃんと付き合ってる時から??」
お姉ちゃんは首を静かにもたげた。枯れそうな花のようだった。
「ひどい!」
「ずっと好きだったんだって。ずっと、ずっと。私よりも。だからね、わたし、は・・・」
聞き取れたのはそこまでだった。声が乱れ出し、お姉ちゃんは両手で顔を覆った。時折漏れ出る嗚咽に謝罪の言葉がのせられる。ごめんね。とお姉ちゃんは私に繰り返した。
「ごめんね。ごめんね。ユメちゃんも彼の事大好きだったもんね。ごめんね」
見たことのないお姉ちゃんの姿に私は何も声をかけることができなかった。今にも消え入りそうで、こんなにも小さい。私は彼女の背中をさすりながら、私の心を作り上げてきた暖かなものが消え失せてゆくのを感じていた。熱が引き、妙な生臭さを伴いながら、私の心が冷やされてゆく。イツキさんの涼しげな微笑みを思い出す。平静を装っている顔の瞳の奥に私は戸惑いを見逃さなかった。
「さよなら」
そう言っていた気がした。血の気の引いた脳みそが見せた幻覚だったのかもしれない。でも「さよなら」と言っていた。あの視線とほほ笑みは別れの挨拶のようなものだった。横に居たのはお姉ちゃんじゃない女のひとで、恋人たちがするように指を絡め合いながら駅前通りを歩いていた。
憧れだった世界が、崩れ落ちてゆく。
崩壊とは、こんなにも静かなものなのね。
夢のように残酷な私の計画は、これで終わらせなくてはいけない。私の信じていた、キラキラとした世界はこの世のどこにもないのだと分かったのだから。
私には欲しいものがあった。けれどそれはもう、どこにもない。