過去を抱いて今は眠るの 1
昼休みのチャイムと同時に宮園恵(ミヤゾノ メグミ)は、お弁当を持って教室を飛び出した。朝降っていた雨はすっかり上がっていて、乾いたアスファルトに夏の日差しが反射している。肩の辺りで切りそろえている髪の毛が、汗をかいた首にまとわりついてきて気持ちが悪い。けれど速足になるのを止めることはできなかった。
メグミはクラスメイトのマユに紹介された人物を訪れるために、体育館裏に向かっていた。正確に言うと体育館裏にあるらしい倉庫を目指している。この高校に入学して四か月ほどたつけれど、メグミが体育館裏に足を運んだことは一度もなかった。
校舎から校庭をまっすぐに横断して、体育館の裏に回る。雑草をかき分けて進むと、小さな木造の建物があった。壁の板が黒く変色していて、膿んでいるようにも見える。昔はアメフト部の部室だったらしいが、廃部と共に学校中のガラクタがここに集められているらしかった。建物には三つの扉があって、真ん中の扉だけがうっすらと空いているようだった。他には何もない場所なので、人の気配も全くない。低木が密に生えていて、風通しがよくないのだろう、雨の匂いがやけに濃く残っている。
不気味な場所だなぁ。やっぱりマユちゃんについて来てもらえばよかったと後悔した。
とりあえず、開きかかっている二番目の扉に手をかける。恐る恐る中を覗くと、四畳半ほどのスペースがあった。その隅にすすけたソファーがあって、見かけたことのある男子生徒が座っていた。
「げぇ。いつも一人で喋ってる変な人だ」
思わずそう呟いた後、メグミは自分の口を手で押さえた。
しまった、聞こえちゃったかな。と思いつつ扉をノックして「あの。ワタラセ君ですか?」と声をかけると、右手にアンパンを持ち、左手でパックのコーヒー牛乳を飲んでいた渡良瀬誘(ワタラセ イザナ)は、顔を上げた。少し長い前髪のあいだから黒縁の眼鏡が見えるだけで、表情が分からない。でも、あまり歓迎されている様子じゃないのはメグミでも分かった。
「なんだよ。誰だお前」
不機嫌丸出しの彼に若干気圧されたが、ワタラセの口の悪さはマユから前もって説明されていたのでメグミの想定内だった。
しかし、この人がワタラセくんかぁ。
ワタラセは学校でちょっとした有名人だった。目立つ見た目をしているわけでもないし、不良という訳でもない。逆に秀でた才能があるわけでもない。ただ地味で、いつも一人で行動しているので、友達が極端に少ないような雰囲気はあるもののいたって普通の人に見える。が、彼は少し変わっている。
独り言が多いのだ。
それもただの独り言ではない。噂によると「見えない誰か」と会話しているように見えるらしい。授業中はもちろん、休み時間、登下校時も、一人で会話のようなものをしていたという目撃情報が多発している。面白い話に飢えている田舎の高校で、ワタラセの噂は瞬く間に広がっていった。学校内で変人と言えば、誰でもワタラセの顔が頭に浮かぶくらいだった。
メグミも時々、一人でしゃべっているワタラセを見かけることがあった。その時は、友達が多いのも面倒だけれど、居ない状態が長く続くと彼みたいに架空の友達を作ってしまうのか・・・。気を付けよう。と改めて周りの友達に感謝したくらいで、特にそれ以上、ワタラセに興味はなかった。ただ変な人。かかわりたくはない人。という印象しかない。学年は一緒だが、クラスも違うので名前すら知らなかった。
マユちゃんも教えてくれれば良かったのに。
「口が少し・・・いや、だいぶ悪いけれど、優しい人だよ。性格に少し、というかだいぶ難があるけど多分助けてくれる・・・、と思う」
いつものようにおっとりとした調子で、でも歯切れ悪く話してきたマユを思い出す。性格の悪さを前もって教えてくれたのはありがたいけれど、「ワタラセ」が、あの「変人で有名なワタラセ」だという前情報の方が何倍も重要に思えた。
そもそも「いつも体育館裏の倉庫でお昼を食べてるから、今日にでも行ってみるといいよ。多分一人だし」と言われた時点で変だと思わなかった私も短絡的過ぎたのかもしれない。
メグミは気を取り直して、倉庫に一歩だけ足を踏み入れた。
「一組のミヤゾノです。えっと、マユちゃんに紹介されて・・・」
メグミが言い終わらないうちに、ワタラセは「チッ」と短い舌打ちをした。
「悪かったな」
「へ?」
「悪かったな、変人で」
「あっ、いや・・・。えっと。さっきのは、何というか・・・。口が滑ったと言いますか」
やばい。やっぱりさっきの聞こえてたか・・・。
自分でも苦し紛れな言い訳をしていると思いつつ、メグミは乾いた笑いでその場を濁そうとした。
そんなメグミの様子を見て、ワタラセは冷ややかな視線を投げつつ、大きなため息をついた。
「チバはどうしたんだよ。普通だったらアイツも付いてくるはずだろうが」
「あ、そうそう。そのマユちゃんから手紙を預かったんだった。はい、これ」
スカートのポッケに入れていたせいで少しシワになっていたが、メグミはマユから託された手紙をワタラセに差し出した。手紙は小さなメモ張一枚で、器用にハートの形に折られていた。ワタラセは顔を歪めながら、それをしぶしぶ受け取る。
書いてある内容を知っていたので、メグミは内心ひやひやとしていた。
さらに機嫌が悪くなるんだろうな。
そして、その予感は的中した。開封した手紙を見てすぐに、ワタラセの顔がみるみる歪んでゆく。左足では貧乏ゆすりが始まっていた。
「まさかお前は、こんなものを届けるためにわざわざここに来たのか?」
低く地響きのような声に、メグミは思わず息を飲んだ。でもここで食い下がるわけにはいかない。
「違うよ!ワタラセくんを紹介してもらう代わりに手紙を届けてほしいってマユちゃんから頼まれたの!」
メグミが手を振りながら大袈裟に否定すると、ワタラセは「めんどくせぇ女」と呟いて、手紙を丸めると辺りにあるガラクタの山に投げ捨てた。
ワタラセの言う「めんどくせぇ女」とは、自分のことだろうか。それともマユのことだろうか。問い詰めようと思ったが、さらに機嫌を損ねて暴れられても困るので、メグミは口を閉じた。
それにしてもここはあまりにも埃っぽい。窓があるのかもしれないが、四方の壁に沿うように物が溢れている。天井に蛍光灯があるので、電気は通っているのかもしれないが明かりは燈っていなかった。小さな本棚や、ソファーにある枕、電子機器のコンセント類は綺麗に見えるのでワタラセの私物かもしれない。体育館裏の草に溢れた通路と同じように、この倉庫も、薄暗くそして湿っぽい。お世辞にも過ごしやすそうだとは思えない。
どうしてワタラセくんはわざわざ不衛生そうな、居るだけで気がめいりそうな、こんな場所でお昼を食べているのだろう。しかも一人で。
あっ、そうか。
そこまで考えてメグミは察しがついた。
いくら架空の友達が居る設定とはいえ、みんなが楽しそうにしている教室でごはんを食べるのは少し辛いものがあるのかな。ワタラセくんなりに心苦しい思いをして学校に通っているのかもしれない。
そう考えを巡らせたメグミはワタラセに再び視線を向けた。変わらず不機嫌丸出しで、ソファーにふんぞりかえっているが、先ほどよりも高圧的に感じなくなった。むしろいじらしいとさえ思える。
なるほど、もしかしたら彼は寂しいのかもしれないな。唯一の友人らしいマユちゃんにも最近かまってもらえていないようだし。
「では、ちょっと失礼して」
そう言うと、メグミはワタラセの横に腰を降ろした。子汚いソファーに腰を降ろすのに少し抵抗感はあったが、これも親睦を深めるためだと思えば致し方ない。
「はぁ!なに勝手に座ってんだよ!」
必要以上に身をのけぞらせて驚くワタラセに、メグミは飄々とした様子で答える。
「だってここ、他に座る場所ないんだもん」
「うるせぇ、座るな。立て」
「私だってこんなかび臭いところ早く出ていきたいよ」
「じゃあ座るな」
「でも今から教室に戻ってもお昼ご飯食べ損ねちゃうかもしれないから・・・」
「あぁ?」
そんな会話をしているあいだに、メグミは持ってきていたお弁当を膝の上に広げていた。
「だから今日はここで食べる。そして、寂しそうなワタラセくんには私の話を聞いてもらうよ!」
ビシッとワタラセを指さしながらメグミが言った。完璧なウインクまで添えて。
「なっ、なんでそうなるんだよ!第一俺はお前の話を聞いてやるなんて一言も言ってないだろ!」
怒鳴るように言うワタラセだったが、メグミは全く動じなかった。こうなることを予想してメグミはある切り札をマユからもらっていた。
「へぇ~いいんだ?」
「はぁ?何がだよ」
「いいんだ?いいんだ?」
「だから!何がだよ!」
余裕の表情のメグミに、ワタラセは見るからに苛立ちを募らせていた。貧乏ゆすりの震度が先ほどよりも大きくなっている。
「ここ、無許可で使ってるでしょ?」
にっこりと笑いながらメグミが言うと、ワタラセはピタリと動きを止めて表情を曇らせた。
「先生に言っちゃおうかなぁ~」
じりじりとメグミがワタラセに近寄ると、ワタラセはメグミから逃れるようにソファーの隅に身を寄せた。
「見たところ私有化してるみたいだしな~」
「うっ」
「もう使えなくなっちゃうかも」
「うぅっ」
「でも今ならなんとなんと!私の話を聞くだけで・・・」
「分かったよ!聞くよ!聞いてやる。だからさっさと話せ」
メグミが言い終わらないうちに、ワタラセは頭を抱えて、うなるように言った。
「おぉ、マユちゃんの言った通りだ。ワタラセくんが従順に・・・」
「あ?誰が従順になんかなるかよ。いつか仕返ししてやるからな」
「おぉ~怖い怖い」
そう言いながらもメグミは少しだけ安心していた。
もっと変な人だと思ったけど、きちんと話の通じる人みたいだ。今のところ独り言の症状もないみたいだし。
「チバの野郎、姑息なマネを・・・」
「なんかマユちゃんすごく怒ってたよ」
マユは一見おっとりとした外見だけれど、性格は頑固おやじそのもので一度決めたことはなかなか曲げない性格だった。高校に入ってから知り合ったメグミにもそれは十分に分かる。二人がどうして喧嘩したのかは分からないが、マユはもう自分から謝らないと決めているようだった。
だからマユは「謝るまで口聞いてあげない」とい素っ気ない文章だけの手紙を、メグミに託したのだ。きっとハート型に折ったのもワタラセに対する嫌がらせのつもりだったのだろう。
「どうせワタラセくんが何か無神経なことでも言ったんでしょ?早く謝った方がいいよ」
「なんで、俺が悪いって決めつけてんだよ」
だって、口も人相も悪いし。無神経だし、優しくないし。性格最悪だし。
と、いう言葉をそのまま言うほどメグミもずさんではなかった。
「おい、アホ。顔に出てるぞ」
が、顔に出ていたらしい。
「えへへ。すいません」
本来の冷静さを取り戻したワタラセは、ソファーに座りなおし腕を組んだ。メグミはその動作に気づきながらも、お弁当の卵焼きを箸で口に運んだ。
「何のんきに弁当食ってんだよ。早く話せ」
メグミは卵焼きを飲み込んでから話始めた。
ワタラセとメグミが出会うことになったきっかけの話を。