夢うつつの月。
「もし、お嬢さん」
空から降ってきたのは、どこか聞き覚えのある声だった。か細い糸をたぐり寄せるように、私は自分の記憶をたどる。けれどその声が誰のものだったのかなかなか思い出せない。
「もし、お嬢さん。泣いているのですか?」
答えにたどり着く前に、また声が降ってきた。綿菓子のようにふわりとしているけれど触れれば溶けてしまいそうなほど繊細な声。
しゃがみ込んでうずくまっていた私は、ゆっくりと顔を上げた。やわらかい風が目元を撫で、ひんやりとした感触が皮膚を通して伝わってくる。手で顔を触ると、頬がわずかに湿っていた。
あぁ、そうか私は泣いていたのか。
にじむ視界を揺らがせながら、視線を上げる。目の前に立っていたのは、えんじ色のスーツを着たほっそりと背の高いウサギだった。ルビーを宿した赤い瞳が私を覗き込んでいる。
頭がぼんやりとして、驚きすらわいてこなかった。辺りに音はなく、空には見たことのない数の星がチラチラと瞬いていた。ウサギの宝石のような目だけがやけに明るい。私の瞳からまた涙があふれ、なだらかな頬を伝い顎を終着点として、ポトポトと滴り落ちる。
「あらあらお嬢さん、また涙が」
ウサギは鼻をひくつかせながら、地面をそっと指さした。人間と同じ五本の指は白手袋で覆われている。
「ごらんなさい。お嬢さんの涙でここが川になっている」
言われた通り指の先を見ると自分の足元に小枝ほどの細さしかない川が流れていた。薄暗いこの場所で、ほんのりと光っている。また無意識に涙がこぼれ、川に一粒混ざり込んだ。
私の涙でできた細流は、朝日の鋭い光ですぐに干からびてしまいそうな、心もとないものだった。きっと帰るべき海を見つけることもできず、誰にも気づかれず消えてしまう。
そう考えているうちにも涙がポロポロとこぼれ、止まることを知らなかった。どうしてだろう、なんで涙が止まらないのだろう。
ウサギがえんじ色のスーツの内ポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。表面に薄く月の模様が彫られている。
「ちょっと失礼」
いつの間にか、川は小鳥が水浴びできるほどの大きさへと変化していた。ウサギはそこに小瓶を浸し、私の涙をすくい取ると、蓋を締めた。
(私の涙をどうするの?)
声を発しようとした時、自分の口から吐き出された空虚さに私は身を震わせた。声が出なかった。もう一度試しても、すきま風のような気の抜ける音しか発することができない。
「声を盗られたから、泣いているのですね?」
ウサギは長い耳を動かしながら確認するようにたずねてきた。燃えるルビーの瞳に見つめられた途端うっとりとした心持ちになり、妙にすんなりと納得してしまっていた。
そう言われればそうだったかもしれない。
声を失ってしまったから、私は首を縦に振ることしかできなかった。頭を揺らすたび、涙がボタボタと流れ落ちる。それがまた川へ混ざり込んゆく。
「お嬢さん、これをお食べ。涙のお礼です」
ウサギはそう言うと私の手のひらに、ひんやりとした光の粒をのせた。つまみあげよく見ると、ビー玉ほどの透明な水晶だった。月の光をかき集めたかのようなその水晶は、あまりの透明さに今にも闇に紛れてしまいそうで少しも目が離せない。
「さあ、お食べ。君は月の本当の美味しさを知っているはずだよ」
促されるまま、私はその光の粒を口に放り込んだ。
口の中に心地の良い冷気が、ほろりと広がりだす。喉の奥に爽快感と温かみが同時に沁みわたるような気がした。それは夜の空気を封じこんだ、黄金色の蜂蜜のような味がした。月の甘味と星屑のほろ苦さが溶け合い、そして混ざりあう。
空気をするりと吸い込み、私は滑りだすように声を発した。
「すごいわ初めて食べる味よ!・・・わぁ!声もでたわ!」
「でしょう?」
ウサギはプゥプゥと笑った。そして言葉をつづける。
「水晶の月というお菓子です。星屑を混ぜ込んだハッカ液に、お月様を長い間漬けておくと願い事が叶う水晶になるのです」
「素敵ね・・・。まるで夢みたいね」
気づいたら涙は止まり、私とウサギの間に流れていた小さな涙の川は糸のようにか細く消え入りそうだった。
「そうだわ、私の涙どうするの?」
「これは凍らせて涙ガラスにするのです。とても綺麗な宝石になるんですよ」
「そう、私の涙でいいのなら喜んであげるわ」
「助かります」
そう言うとウサギはウインクをした。ルビーの瞳がチカリと光る。
「あぁ貴方の瞳、ルビーみたいでとっても素敵ね!」
ウサギは二度、驚いたかのように瞬きをしてから答えた。
「ありがとう。でもこれはルビーではなく、アンタレスの輝きですよ」
「アンタレス?」
「そう、サソリの心臓」
「あ、わかったサソリ座ね!」
「えぇ、そうです」
ウサギはゆっくりと頷いた。そして、ピクリと鼻を震わせ、夜空を仰ぎ見る。
「あぁ、もう朝が来てしまう。月がなくなってしまう前に帰らなくては。お嬢さんももうお帰り」
「でも、私帰り方を知らないもの」
「大丈夫、星の瞬きに耳を澄ませてごらん」
ウサギは長い耳を尖らせ、瞳を閉じた。真似をして、私もゆっくりと瞼を降ろす。そして、はるか彼方の上空で命を燃やしている星の事を考えた。
「では、またいつか」
綿あめのような声音が、私の耳をかすめる。瞳を開けるとそこには誰も居なかった。夜空を見上げると星の輝きを宿した瞳が雲の隙間を駆け抜けているのが見えた。ウサギが空へと昇るにつれ、アンタレスの赤い輝きが増してゆく。それはやがて流れ星となり、月へと消えていった。
まだ口の中に残っている水晶の月の甘さにうっとりとしながら、私はまた目を閉じる。今度こそ星の瞬きを聞こうと、深い闇に意識を集中させる。
「では、またいつか」
ウサギの声がまた聞こえたような気がした。
はっとして目を開くと、そこは見慣れた自分の部屋だった。カーテンを閉め忘れた窓から、登ったばかりの朝日が差し込んでいる。
熱に浮かされるといつも見る夢だった。ウサギはきちんとお月様に帰れただろうか。
目を覚ました時、喉の奥がひんやりと心地よかったのは、夢に浮かされたただの幻か、もしくは現実か。
これは夢とうつつの間のお話。
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