「悲しみきる」ということ
聴力が下がりはじめたのは小学生のころで、20年くらいも前のことなのに、今まで「聴こえなくてつらい」と悲しみきったことがなかったな、と思った。
「聴こえない分ちゃんと授業に集中しなきゃ」「せめて明るくふるまわないと」「負けてはいけない」とか、辛さに蓋をし、目をそらしつづけてきた。
悲しい、と思ったら、折れてしまいそうだったからかもしれない。
つらい、と認めたら、何かに負けるような気がして怖かったのかもしれない。
失恋してすごく悲しいのに、泣けないときみたいだった。
誰かにそうしなさい、と言われたわけではない。
ただただ自分の弱さとか自信のなさに向き合えなくて、クラスや職場の中に居場所をつくろうとして、「障害を受け入れたわたし」モードで暮らしていた。
だけどどう取り繕ってみても、悲しい気持ちは消えたりしない。
むしろ抑えれば抑えるほど、「ほんとうは悲しい自分」と「障害を克服した自分」の間でギャップが大きくなって、わたしがバラバラになっていく気がした。
だから一度、正面から悲しいことをかみしめてみようと思った。
わたしは聴こえないことが、つらい。
もし何でも叶えられるなら、聴こえるようになりたい。
めちゃくちゃ悲しい。
カラオケで何時間も歌ったり友達と長電話したり、してみたい。
悲しみを悲しみとして味わうには、胆力がいる。悲しみに耐えられるだけの自分がしっかりできている必要がある。
あのとき蓋をするしかなかった感情も、大人になった今なら受け止めていくことができる気がして。
悲しいことを悲しいと感じられることは多分終わりではなくて、始まりだと信じている。
きっちり泣いたあとには、そこからもう一度スタートしてみようかなって思えるかもしれない。