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言葉が、私を強くする。

聴こえる子と同じでいたい。

今だから言葉にできるけど、
子どものころはとても直視できない、ヒリヒリした切実な祈りだった。

難聴と診断されたのも、補聴器をつけはじめたのも、
小学校低学年のころ。

当時はまだ障害の程度が軽かったこともあって、
高校を卒業するまで、ずっと聴こえる子たちと同じ学校で学び続けた。

補聴器で声をかき集めて、唇をヒントに相手の話を推測して、
そうしてキャッチした情報の切れはしを握りしめて、
私はいつも、乾いた気持ちで笑っていた。


初めて手話に出会ったとき、
私はこれを絶対に手放してはいけない、と思った。

なぜかそう思ったのか、最初は全く分からなかった。

その気持ちを、心の底に押し込めようとさえした。

実家を出るまで「聴こえる人と同じ」を目指してやってきた私にとって、
手話でコミュニケーションをとることは、
自分と両親を否定するような、後ろめたいことだったのかもしれない。

だけど、手話を使うとき、私はどうしようもなく楽しかった。

手話は1つの言葉だから、
覚えようと思ってするっと使えるようになるわけじゃない。

学びはじめのころは、声で会話するほうが早いくらいだったし、
相手の手話を見て、ぱっと内容を理解できるようになるまで、
3年か4年はかかった。
流暢な手話を使えるようになるための学びは、これからもずっと続く。

それでも、少しずつ少しずつ、
言葉が自分のものになっていくことが嬉しかった。

誰かの言っていることが、そのまますっと入ってくること。
自分の気持ちをちゃんと伝えられること。

会話の中で、「わたし」を表現しあえること。

誰かと言葉を分かち合うときや、
言葉をぶつけ合って議論をするときでさえ、
人はとても生き生きする、と私は思う。

今、その場で、そこにいる人と、言葉を交わせること。
人との交わりの中で、自分を生きつづけること。

日本語や、声を活用することを、一切否定したいわけじゃない。
でも自分たちが自由に使える言葉があるから、
私は明日も頑張れると思う。

思う存分に話せる場所を、
自分が自分でいられる場所を、大事にしたい。

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