普通ってなんだろう
自分の中で「普通」だと思っていることがある。
料理は楽しいもの。
晴れの日は気持ちがいい。
人混みは情報が多いからあまり行きたくない。
これらは私にとって「普通」のことだ。何もおかしくないし事実だと思う。
ただし、他の人にとって「普通」かと聞かれると答えは「NO」だ。
料理が苦手な人は楽しいとは思わないだろうし、晴れの日は花粉がたくさん飛ぶから嫌と言う人もいるかもしれない。人混みが大好きな人も一定数いる。
そういう人たちにとって私の感覚は「普通ではない」。少し変わってるね、とお互いに思うだろう。
私にとって「普通ではない」場合、その相手は「変」なのか?
必ずしもそんなことはない。
料理が苦手な人は一定数いるし、晴れの日が苦手でもおかしくはないし、人込みがつらくないのはちょっと羨ましいくらいだ。
自分にとって「普通ではない」が、変ではない。
そういうことはたくさんあると思う。
人の数だけ「普通」は存在し、また人の数だけ「変」も存在する。
自分にとって「普通ではない」から糾弾するのは、価値観の押し付けになりかねないと思う。
特に、自分が肯定的に思っていることや、そうでなくてはならないと無意識に思っていることに対しては、価値観を押し付けてしまいがちになる。
「世間的に正しい」とされていることも、別の軸から見ればそうではなかったりする。別の軸と言うのは、時代であったり、年代であったり、環境であったりする。
例えば数十年前の日本は「妻は家を守り、夫についていく」が普通だったが、現代ではあまり見られない。
この価値観は色々と内包しているのであまり掘り下げないでおくが、世間の「普通」でさえ時が経てば変化するのだ。
個人の「普通」など言わずもがな変化するし、他の人の視点から見れば変なことだらけだ。
だから、自分の「普通」が正しいなんて口が裂けても言えない。「普通」なんて本当は存在しないのかもしれないのだ。
自分が「普通」と思っているという事実と、それが「正しい」という思いは分けて考える必要があると思う。
例えば、ゴーヤの可食部について。
日本では外側の緑の部分を食べ中の白いワタは捨ててしまうが、白いワタを食べ緑の部分は捨てる、という国もある。
私の感覚で言うと中の白いワタを食べるのは「普通ではない」「正しくない」が、その国の人たちにとっては「普通」だし「正しい」食べ方である。
そう考えると、私にとって中の白いワタを食べるという行為は「普通ではない」が「正しい」行為になる。
正しいからと言って実際に食べるわけではないが、「普通」と「正しさ」は混同しない方が良いだろうと思う(追記:検索してみたら、ワタは甘くてフワフワしているらしい。ゴーヤを入手したらやってみたい)。
とは言え、自分にとっての「普通」はなかなか認識しづらい。だから、容易に人に押し付けてしまう。
私もたまに気が付いて頭を抱えるが、気づかないうちにそうしていることは山ほどあるだろう。
どこからが価値観の押し付けになるのか、という疑問もある。
「個人の見解」として述べる分にはどこまでも「普通」の価値観を展開していけばいいと思う。他人の「普通」を見聞きすることで新しい発見につながることもある。それは素晴らしいことだと思う。
押し付けになるならないの線引きは、相手を尊重しているかどうか、だろうか。
すごく曖昧な線引きのような気はするのだけれど、このラインは採用してもいいかもしれない。
相手の「普通」を無視して「私はこうなの!」と言ってしまうと、嫌な感じになる。
相手の「普通」を尊重したうえで自分の「普通」はこうです、そういう考え方もあるんですね、とただ穏やかに伝え合うことができるなら、押し付けにはならない気がする。
ずっと考えながら文章を書いているが、どうやら「尊重」と「受容」が重要なカギになりそうだ。この線で考えていこう。
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