蜘蛛は本当に「おれは獲物をとることを目的として巣を張っているのだ」と思っているのだろうか。本当は「獲物をとることなんて考えてないのだけど、本能に従って巣を張っていたらそこに獲物がかかった」程度に思っているのではないだろうか。(蜘蛛はあまりにもクオリアが人間と違うので、「思う」のような人間用の動詞を蜘蛛に対しても使ってもいいのかは微妙だけど)
実際、喋る蜘蛛がいたとして「いや、獲物をとるつもりなんてないッスよ。ただ楽しいから巣を作ってるだけで」と言っていたら、「いや、君が主観でどう考えてるかはわからんけど、振る舞いとしては獲物をとるために最適化された性質の巣を張ってるやないかい!」と反論したくなるでしょう。
よく、オシャレをする人が「オシャレは他人から好かれるためにやってるんじゃなくて、自己肯定感が上がって、自分が強くなれるからしているんだよ」と言っているのを観測するけど、それに対しても「いや、君が主観でどう考えているかはわからんけど、振る舞いとしては他人から好かれるために最適化された格好になろうとしてるやないかい!」と思う。
人はよく、「いや、自分はそんなつもりでやってないよ」と言う。それは本心からそう言っているのだろうけど、そもそもその「本心で何を思うか」という思考回路自体も選択圧によって設計されていることだろう。
詐欺師が「いや、自分が儲けるためではなくて、老人のタンスに眠っている貯金を世の中に回すことで経済を回しているんだ」という持論を述べたとき、それは本心からそう言っているのかもしれないけど、そもそも「悪事を働いたときに罪悪感を持たないよう、適当な大義名分を思いついて、それを盲信する」という思考回路を経るように、本心が選択圧によって設計されているのかもしれない。
人が本心をどのように吐露しているのか、そしてそれが本音か嘘かなんて、心底どうでもいい。行動だけが本質である。