【日記2024/7/17】

・1400字弱


 『法と道徳をごっちゃに理解していて、自分を疑う能力がなくて、主観的情報と客観的情報をごっちゃに理解していて、それ故に客観性/再現性のある意見を言っていこうという意識がなくて、そのくせ一人前に意見を尊重されたがる人間』、私の人生の登場人物として登場しないで欲しい。

 ここで最も重要なのは「一人前に意見を尊重されたがる」の一点に尽きる。その他はどうしようもない。人には得意不得意があるのだから、ディベートが苦手な人間がいてもいい。でもそういう人はそれを自覚した上で、ディベートの場で意見を尊重されようと思わないで欲しい。

 もちろん誰の意見だって、「お腹が減ったから昼食にしよう」とか、「週休二日の仕事がしたいな」とか、「さっき見た映画の感想を言い合おうよ」みたいな、主観的な意見に価値がある会話においては尊重されるべきだと思うし、そういう場面では自分の意見に客観性を持たせようとする必要はないよ。(しかし、ディベート能力が終わってる人は往々にして、ただ「私が嫌だからやめて」と言えば良い所で、「それをすると君が不利になるよ」「君の過去の言動と矛盾しているよ」「一般的にはダメという人が多いよ」などと変に客観性を持たせようとして話をこじらせる場合も多い)

 でもね、他者の意思決定を左右させたり、道徳を設計したりする場では口を開かないで欲しい。

 私はそういう人々と差別化するために、道徳の話をする時は「個人的に~だと思うよ」とか「~である気がする」という自明すぎるエクスキューズをしている。そんなこと書かなくても読み手からしたら主観は主観だとわかるのに、なぜそのような自明すぎるエクスキューズをするかというと、差別化のためである。

 彼らは論理処理でなく確率処理によって正しい結論を得ようとする。彼らは、論理的な正誤と、「それを言ったことによって嫌われるかどうか」を区別していない。その2つの評価軸はいつだって共にあるのであって、切り離して考えることはない。それ故に、「相手が真面目な顔をして訴えかけているのだから、それは尊重して、いくらかは歩み寄らないといけない」と考えることがある。

 私の母の印象的な言葉を紹介しよう。ある日、私と母が「3~4個の論点」を並べて口論しているとき、母は「それは私が悪かったよ。でも、私は譲歩して間違いを2つ認めたのだから、そちらも(全く関係のない、別の論点において)間違いを1つは認めてよ」と言ったのだ。

 そのときの私は「世界がそう見えている人もいるのか」と衝撃を受けた。

 私は、正しさは論理的に導き出すものだと思っているので、「正しさとは、メンツとか気遣いを加味して、自分に非がないのに非を認めたり、相手に非がないのに非を認めさせたりしていいものだ」という認識で生きている人を見ると、見えている世界からして違う人種だなぁと思う。

 それは定型発達症候群の症状だと思われる。


・最近嫌なことがあったからこんな文章を書いているのではなくて、人生を通してうっすら思っていたことをなんとなく吐き出しただけです。

・中学校の国語のカリキュラムに人狼ゲームを導入して、人狼ゲームを理解できる人(:誰目線では何が見えているのかという心の理論をよく理解している人)が社会で有利になるような仕組みになって欲しい。



・おわり

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