母入院 2
リハビリ 4
8 ジェットバス
リハビリ。石膏を横半分にカットしてから、毎日少しずつリハビリが始まった。まず、今でいうジェットバスだ。一人が全身を伸ばしたまま入れる泡風呂だ。
まぁ、そこへ運ぶためにストレッチャーに乗せるのがまず大変。なんたって二か月くらい体を真っすぐにしたまま上を向いていたのだから、節々が節にならない。動かさないでいると、筋肉は衰え関節は曲がることを忘れる。瘦せた足を見たときには、さすがにドキッとしたね。歩けるのか。夫婦で商売をしていたが、また、できるようになるのだろうか。わたしは大学を続けられるのだろうか。そん時に決めた。四十過ぎの子どもだ、親に何かあったら大学をやめようと。(※翌々年の酒田大火で迷いがなかったのはここで生まれた。)
ストレッチャーに乗せるのがまぁ大変!
☆太っている。重い。身長百五十五センチくらい。体重七十キロはあったは ず。
☆左足が伸びたまま。腰も曲がらない。
☆痛い、痛いとうるさい。
☆ストレッチャーが意外と高い。ベッドが低いので、上記の人間を持ち上げることになる。
今は介護という言葉を、見ない・聞かない日はないくらいだが、三十数年前はほとんど聞かなかった。動けない人を、ベッドから移動させる機具も普及していない。すべて人の手に頼る。
痛い痛いと言いながらも、風呂好きの母は入院して初めての入浴にうれしそうでもあった。
「あぁ、いいあんべぇだぁ」(いい気持ちだ)
「もうちょっと熱くてもいいの」
ときたもんだ。風呂で温まることが、人の硬直した体にいいということを、母のからだの変化でよくわかった。少しずつ動くようになる。また、そうなると、
「揉め!」
「さすれ!」
「曲げろ!」
の連呼だ。はぁ~あ。回復してくれるのはうれしいが・・・・・・である。
9 患者目線からの看護婦さん
ストレッチャーに乗せるのもストレッチャーから降ろすのも、婦長さんが一番うまいと言っていたことを思い出す。ベテランの味だろう。午前中点滴やら注射やらをのせた器具のカラカラという音が聞こえると、動ける人が廊下を覗きに行く。誰が担当かを確認するのだ。なぜ? 注射がうまい看護婦さんかどうかを確かめるためだ。
「誰だ?」
「○○さんだ」
「あぁ~いで(痛い)の、今日は」
という会話が成立する。わたしは、その看護婦さんが、部屋の住人に針を刺すのが一回で終わるか確認する。もう、患者というものは人柄がすごくわかりやすい。
じっと我慢する人・痛いという人・早くうまくなれとアドバイスとも嫌味ともとれる言葉を言う人・ここに刺せと言う人・・・・・・。
吾が母は、最後のパターン。言われた方も困っちゃうよねぇ。
「おれの血管は細いから、ここでねばだめだ」そんなことあなたが決めることではありません、て言えるほどまだ度胸も据わってないから、気の毒だよ。
初めての歩行器 5
10 数か月ぶりに立つ母
膝は九十度まで曲がればいいほうかもしれないと言われていた。手術はうまくいき、股関節も少しずつ動かせるようになったし、リハビリにも車椅子で行けるようになったし、ということで歩行器を使って歩く練習が始まった。いやぁ、尿瓶から開放だぁ。やったね。
歩行器は、立った位置でちょうど胸の高さで半円の輪になっており、輪につかまってもたれかかれるようになっている。(もたれかかると下の半円に車がついているのでつーっと前に行き危ないが)下の半円は少し直径が大きくなっている。つーっと行かないようにつかまり、一歩一歩歩く。
術後初めての歩行練習の時、看護婦さんとわたしとで母に付いた。すると、母が笑い出した。あ? なに?なんと歩き方がわからない、忘れたと言うではないか。
「どげしてあるぐなんけ?」(どうやって歩くんだっけ)
看護婦さんが優しく、
「そうだよね、しばらく歩いてないもんね。よくあることだから気にしなくていいよ」
ふぅ~ん。人の体は不思議が多すぎる。
「右。左。右。左。だよ」
と言いながら、母の足を動かしてみた。何度かやるうちに、脳みそが思い出してくれたようだ。自分でやってみるといって、みぎぃ、ひだりぃと歩き出した。感動の一瞬と言いたいところだが、
「くたびっだ。おわろ」
ときたもんだ。ま、仕方ないか。二足歩行したのがだいぶまえだし。
毎日少しずつ歩行器を使う時間を増やしていった。人はできるようなると、苦が薄くなる。自分からトイレに行くのに車椅子ではなく、歩行器で行くと言い出す。
できないことをできないまま頑張れと言ってもだめなんだ。少しでも自分に光を感じないと、人は努力することがただの苦痛でしかない。
11 頑張りの源
母は、大腿骨骨頭を折る数年前に脳血栓で倒れ、数か月内科病棟に入院している。わたしが高校一年生のお正月だ。その後遺症で、左半身がやや不自由であった。倒れたときは、自分で起きるなんてことはできなかった。しかし、服薬とリハビリで杖なしまで歩けるくらいに回復した。そのときも母はリハビリの経験をしている。その経験が、先に進めるという自信をを呼び戻すのだろう。
杖なしで歩けるようになったのになぜ、なぜ骨折を・・・・・・。一番悔しかったのは母だと思う。人は、いつ何時何があるかわからない。わたしは、知らず知らずそんなことが当たり前に思えるようになった。母の脳血栓の入院から始まって、大学時代は、兄の胃潰瘍手術の付き添い、母の人工骨頭の手術、父の胆嚢摘出手術の付き添い、そして大学三年の十月末の酒田大火。家も思い出の数々も灰になった。
でも、今こうして生活している自分がいる。回復をいっぱい経験しているからだ。回復を見せてくれた家族やまわりの人がいるからだ。だから、自分に何が起こったとしても、回復できると信じることができる。
大学時代の長期の休みは、半分以上付き添いをしていた感覚がある。注射の打ち方を教えてくれたら、看護婦さんやれんじゃんと思ったことを覚えている。