「コオリオニ」感想〜鬼才・梶本エリカの奏でる、人でなしたちのブルース〜
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0 はじめに
*この感想はネタバレが盛大に含まれますので、未読の方はご注意ください!!!
BL漫画「コオリオニ」につき、「すごい作品だ」という噂は聞いていたのですが、まずその表紙から漂う迫力に「これは普通の作品ではない」とたじろいでしまい、読むことを先送りしていました。
そして今般、ふと思い立って読んでみたわけです。
そしたら、確かにこれは「すごい」作品でした。読んだ後はまず「すごい」とか「やばい」いう極めて抽象的な感想が、皆の頭の中に発生すると思います。
今般、その「すごい」「やばい」という抽象的な印象を、もう少し丁寧に、自分なりに因数分解していく作業をしてみたので、感想として残しておきます。
なお、いわゆる「普通の」BLを期待して読んではいけない作品ではあり、BLという枠で括って色眼鏡で見られるのが非常に勿体無い作品でもあります。しかし、BLとして描くことでこそ、この作品の魅力は引き出されているのだと感じます。
1 作品「コオリオニ」の紹介
「コオリオニ」は、実際に起こった北海道警察の銃器摘発やらせ事件(稲葉事件)をモチーフにしたBL漫画です。
稲葉事件については、こちら。
北海道警察の生活安全特別捜査隊班長であった稲葉警部が覚せい剤使用・所持により逮捕され、その後の捜査・裁判において彼が上司の依頼で、自ら捜査協力者から調達した拳銃を正規に押収していたように偽装していたことなどが芋づる式に発覚したという事件です。
まさに事実は小説より奇なり、といった衝撃的な事件で、このWikipediaを読むだけでも相当に面白いです。
この稲葉事件に関連した書籍などもいくつかあり、この事件を題材にした映画(「日本で一番悪い奴ら」)もあります。
コオリオニは、この稲葉警部をモチーフにしていると思われる、北海道警察の警部補である鬼戸圭輔と、彼の捜査協力者(エス)となった、誠凛会塩部組君長補佐である八敷翔の2人を中心に物語は展開していきます。
2 登場人物について
鬼戸について、最初は飄々としたやり手の刑事という印象であり、やらせの銃器摘発を行なっているものの、特別、悪人といった印象まではありません。
黒髪に無精髭、柔道で鍛えた体格の、いかにも刑事、という風貌の大男。
仕事のために家庭を犠牲にした(本人曰く「仕事を選んだから家庭を逃した」)という言及はされますが、一見ありふれた話のようにも聞こえます。
しかし、話が進んでいくにつれ、どうやら鬼戸が「普通の」感覚を持った人間ではないこと、はっきり言ってしまえば「人でなし」とか「悪人」と言われる部類の人間であることが明らかになっていきます。
そして八敷については、その見た目も相まって、鬼戸が始め思っていたように、哀れな身の上のお姫様、悲劇のヒロインのような印象を始めは与えます。
ロシア人である母親に似た美貌、金髪の長髪で細身の、女性的な風貌の男。
しかし、八敷もまた、鬼戸と同じくとんでもない「人でなし」であることが段々と明らかになっていきますが、それを種明かしするやり方が本当に上手なので、背筋がゾッとします。
この「コオリオニ」は、一般的に「サイコパス」と呼ばれるような人たちの生き様を描いた作品なのです。もっと言うと、社会に適合できない人たち、社会のはみだし者たちの叫びが詰まった作品です。
そして、そんな「人でなし」同士の愛(・・・と表現するのが適切なのか分かりませんが)を描いた作品でもあり、その意味でまさに「BL」ではあります。
各話の感想について以下、順に話したいと思います。
3 第1話「刑事ごっこ」
エスを利用して銃器を摘発する鬼戸のやり方はある意味「刑事ごっこ」とも言えます。「生安はヤマとエスの取り合いですよ!」という鬼戸の独白についても、この警察内部の駆け引きが「刑事ごっこ」だと皮肉的に言えます。
しかし、鬼戸と八敷がしゃぶしゃぶを食べた後の塩部が後ろに隠れていたシーンで、塩部が「お前肉ダメだったなあ」とさりげなく言うシーン、八敷が肉を食べられない理由を考えるとなかなか凄まじいものがあります。
最終話で明らかになりますが、ヤクザの幹部である木場など(?)から自分の足の指を食べさせられたりしていた過去があり、おそらく、それで肉が食べられないのです。
4 第2話「ヤクザごっこ」
柏系列の武器庫を摘発するために、新宿へ潜入捜査を行うことになった鬼戸と八敷。鬼戸がヤクザになりすますことから、まさにヤクザごっこ、ということですね。
この話では2人の関係が一気に接近し、物語もかなりのスピードで展開していくので、置いてけぼり感を感じる読者も多いのでは。
そして、鬼戸と八敷につき、その関係性から生じる化学反応のように、それぞれ自身が所属する組織からの離反を考え始める時期でもありますね。
5 第3話「ごっこの始まり」
この話は八敷のこれまでが八敷の視点で語られる、回想のような話となります。
このタイトルが「ごっこの始まり」だということから、八敷もまた「ヤクザごっこ」(あるいは「ヒトごっこ」)をしている存在だということが示唆されます。
この話で出てくる重要人物が八敷の幼馴染の佐伯。八敷はロシア人の母親に似ていたため、彼女に逃げられた日本人の父親から性的虐待を受けていました。
そんな八敷を救ったのが佐伯でした。父親からの性的虐待による心の傷を隠すため、感情を消して「コオリ」になっていた(なろうとしていた)八敷に「エッタ」(氷鬼や鬼ゴットで、鬼が他の人を捕まえた時に発する言葉、らしい)して人間に戻してくれたのが、佐伯だったというわけです。
この話で印象的なのは、生まれ育った町を出るために、佐伯が運転して疾走するバイクで後ろに座り、佐伯にしがみつく八敷の独白のシーンです。
特区の生まれであること、実の父親から性的虐待を受けていたこと、といった自分の境遇を呪う気持ちと、社会からつまはじきにされながらも居場所を渇望する感情。
死にたいという感情はあったが、それは単に「死ねば自分の居場所が見つかるのかもしれない」「死んだ後の世界では、自分たちのような者も受け入れてくれるのではないか」という切なる願望からのものであって、本当はただ居場所が欲しいだけなんだという、社会においてアウトサイダーとなってしまったものとしての切実な感情を吐露します。
八敷にとって、死の国とは、自分を受け入れてくれる夢の国。
佐伯は八敷という存在を受け止めきれませんでしたが、八敷は鬼戸であれば「今度こそ死の国へと導いてくれる」と感じています。つまり鬼戸が自分の居場所となってくれるのと感じていたということでしょうか。
この話を読む限り、八敷は社会的に逸脱しているものの、父親から性的虐待を受けて、そんな自分を救ってくれた幼馴染の佐伯に惚れ、佐伯のために足の指を詰め、他の男と寝て、と献身的だが報われない、可哀想な人物という印象を受けます。
そんな八敷の印象が、佐伯視点の番外編「コオリの女王」で一気に転換するわけですが、この転換の恐ろしさは、同じ出来事であっても八敷自身の主観であれば第3話のように描かれ、そこに嘘はない。同時に佐伯の主観であれば「コオリの女王」のように描かれる、そこにもまた嘘はない、ということです。
お互いにお互いの存在は自分の人生を犠牲にしてでも尽くすような、必要な存在だったにも関わらず、お互いの認識にこんなに乖離がある。
佐伯の覚せい剤の常用による錯乱、そして彼の最期の悲痛な訴えなどについては後述。
6 第4話「狐の嫁入り」
「狐の嫁入り」は、言うまでもないですが、話の冒頭でのやりとりが示すように、八敷が銃対室室長となった鬼戸に誠凛組から送り込まれた(嫁入り)ことから来てるのでしょう。
2人の関係は更に深まり、鬼戸は「これまで負け続けた借りを返せ」と八敷に対して塩部への謀反をそそのかします。
この話あたりから、鬼戸と言う人物の暴力性、大胆不敵さ、などが明らかになってきます。
7 第5話「コオリの宝石」
鬼戸と八敷が風呂に入っているシーンで、鬼戸が八敷に対して「だってお前 俺に似てるだろ?」と言うシーンがあります。ここで、鬼戸と八敷が「同類」であることが示唆されています。
何が「だって」なのかは明確でないですが、「俺に似ているなら、塩部に利用されたままではいないだろ?」ということかと思います。
塩部が誠凛会の上部組織である山王会の木場に「八敷が怪しい動きをしている、刑事が八敷に色々吹き込んでいるんじゃないか」と電話しているまさにその時に、八敷が木場を性的に接待している場面は、もう何と言うかたまらないですね。
遂に塩部に対しての裏切りを実行する八敷。鬼戸と八敷の後ろ姿に元妻の裏切りを重ね、慌てて本家へ車を回す塩部だったが時すでに遅し。
そして八敷は塩部への裏切りを実行するような自分、それは真の八敷の姿であるのですが、鬼戸に対してそんな「自分を見つけてくれた」と感激します。
「俺がオヤジを殺した」と感慨にふける八敷の脳裏に浮かぶのは、ある日の佐伯の姿。実の父親も自分が殺したかった、そんな彼の感情が垣間見えます。
そしてパシコフを訪れる八敷が車の中でかけたオペラが「ファウスト」の「宝石の歌」。ファウストはゲーテの代表作とされる長編の戯曲。
悪魔であるメフィストと契約をした学者のファウストは、メフィストの力で若返り、マルグリートという女性に惚れてメフィストの力で宝石をプレゼントして気をひこうとします。その場面で歌われるのが「宝石の歌」。
悪魔にもらった宝石をそうとも知らず喜ぶ少女。
この宝石の歌、をここで持ち出した作者の真意は分かりませんが、私はまやかしの宝石をもらって喜ぶ少女に八敷が投影されているようにも感じました。
八敷は鬼戸が「自分を見つけてくれた」と喜びますが、元々八敷は自分の思うまま生きてきたのであって、鬼戸に「救ってもらった」みたいな考えがまやかしであると示唆していると。
第7話で、バシコフが鬼戸のことを八敷の「メフィストーフェレ」と呼んでいることや、鬼戸が八敷に対して「生まれたその日からのびのび生まれっ放しでやってきた」と言っていることからも、そうかなと。
8 番外編「コオリの女王」
コオリの女王とは、まさに八敷のことでしょうね。
冒頭、佐伯が八敷のことを「神の子ドクズ」と表現しますが、八敷も佐伯のことを第3話で「どうしようもないクズで神だった」と表現しています。お互いに相手に全く同じような印象を抱いていたわけです。
そして、前述したように、この話を読むと、読者の八敷に対する印象が一気に変わります。第3話は、あくまで八敷自身の視点から見た自分の物語なので、他人である佐伯から見たこの話の方が客観的に八敷を語っていると考えてよいでしょうね(その他の登場人物、島さんの八敷に対する評価なども考えてもそうですね)。
つまり、八敷は人への共感とか人間なら持っていると私たちが信じてやまない「温かい」感情がほとんど欠落しているような人間です。
それに対して、佐伯は、佐伯自身が自分を評して「クズだが悪人ではない」と述べているように、人並みの感情は持ち合わせています。そして、頭も良いし、人の感情の機微を察することもできる賢い人間です。
そして、彼が不良になり、ヤクザになったのは、自分で「単なる俺の選択だ」と述べているように、自身で選んだことなのです。自分の出自を言い訳にしないあたり、彼は賢い人間ですね。実際、出自でグレるか否かはある程度その人の選択もあると私は思っています。
なお、佐伯と対照的に、八敷は自分がクズであることは出自のせいである、というような独白をしています(第3話)。
そして、佐伯がそれを選択したのは、おそらく八敷と一緒に居たかったから。ヤクザという職業も、塩部に指摘されたとおり、向いていなかった。罪悪感というものを感じない八敷はヤクザに向いていてヤクザとしては順調に成長していきますが、佐伯は置いてけぼりです。
本当ならば、自分が八敷を助けるはずなのに、彼は自分には理解できない恐ろしいモンスターで、佐伯の居場所は八敷の元にもないし、ヤクザの仲間にもなりきれない。一方で「ディスグラフィア」と呼ばれる文字の書けない学習障害がある佐伯は、「普通でもなく異常でもない」自分自身に追い詰められていきます。
最終的には、この世界には自分の居場所はないと考えて、彼は死の国へと旅立ってしまうのです。佐伯は本当は八敷に自分の居場所になって欲しかった。しかし、佐伯には八敷は理解できない存在で、ありのままの彼を受け止めることは難しかったのでしょう。
9 第6話「ヒトごっこ」
第6話では、鬼戸の過去が鬼戸自身の回想のような形で語られます。
警察という組織に、社会に逆らって「人生を棒に振った」父親から言われたとおり、「言われたとおりのことだけ」をして生きてきた鬼戸。比較的順調に警察組織において出世していきます。
他方で、「言われたとおりのこと」をしている結果、自分に惚れた男性も抱いていたという過去が明かされます。警察学校の仲間、そして捜査協力者、エスとして飼っていた「寺嶋」。エスを性的に自分に依存させようとするのは、お得意の方法だったわけですね。
寺嶋は、鬼戸曰く「対人恐怖症の社会不適合者」。彼は鬼戸に対して、どうすれば普通になれるのか分からない、とこぼします。寺嶋に対する鬼戸の嫌悪感は、必死に社会に適合しようとしている鬼戸にとって、社会不適合である、ということは恥ずべきことだからという面もあるでしょうし、本来は「社会不適合者」である自分としての近親憎悪のような面もあるでしょう。
鬼戸が結婚して妻が妊娠した後の顛末は正に悲惨であり、彼が普通の生活を送ろうとして、自分ではない者になろうとして起こった悲劇なのかもしれません。一番被害を被っているのは鬼戸と結婚した女性なのですが・・・。
そして、鬼戸が自分と同じく社会不適合者であることを見抜いていた寺嶋にそのことを指摘され、逆上した鬼戸は寺嶋を殺してしまいます。
そして回想が終わり、潜入捜査で酷く傷を負い、入院していた鬼戸の病室のシーンで、仲間の刑事である島さんが言います。
「異常者は自分を異常だとは思わないだろ」
このシーンで、島さんから八敷の本性を明かされ、鬼戸は、八敷が自分と同類なのだと気が付きます。
そして、これまで人のふりをしていた、「ヒトごっこ」をしていた(社会に適合しようと努力してきた)のをやめて、本来の自分=「オニ」として生きると決めるのです。
10 第7話「オニごっこ」
平気でバシコフを裏切る悪党八敷。
そして、自分は必死に社会に適合しようと、自分を殺して真面目にやってきたのに、お前はのうのうと自分を隠さず好き放題やってきた、と八敷に怒りの感情をぶつける鬼戸。
ここで初めて、鬼戸は自分の生の感情をダイレクトに八敷にぶつけます。
これは八敷に対してというより、社会に対しての叫びですね。
これに対して八敷は、
と言って、鬼戸を受け入れます。
本漫画の大きな見せ場の1つですね。
さて、バシコフを島さんが取り調べるシーンで、私たちが信じる社会正義と「彼ら」の価値観が衝突するシーンが出てきます。
バシコフは、鬼戸や八敷の「同類」なわけですが、島さんに対して、
と言い放ちます。島さんはそれに対して
と言います。これは社会におけるおそらく圧倒的多数派の意見ではあるでしょう。私もそう思います。
11 最終話「トケルオニ」
最終話らしく、衝撃的な事実が明らかになります。これまであまり存在感がなく、鬼戸を心配してくれてる「いい上司」感を醸し出していた水谷課長が鬼戸を警察から追い出すためにヤクザも巻き込んで裏工作を行なった人物だと明らかになります。
単なるクズは次長であり、真の悪党は課長だったと言うわけですね。そして課長も鬼戸や八敷と同類の「人でなし」。課長は鬼戸が「人でなし」と言うことはとっくに見抜いており、防犯、銃対といった警察の内部組織を「我々異常者の砦じゃないか」と言います。
防犯は課長の居場所、だったわけですね。
それに対して鬼戸は「俺は・・・俺の城を見つけたんだ」と伝えます。それはおそらく八敷のことでしょう。
2人はボートで高飛び・・・逃避行に出ようとしますが、その時、鬼戸は八敷を殺して自分も死ぬようなそぶりを見せます。どこまで本気かはわかりませんが、
と言う鬼戸の言葉はある程度本気で言っていたのでしょう。
結局、2人はそのまま逃避行に出ますが、鬼戸は怪我を負っており、ボートの上でそのまま帰らぬ人に・・・と思わせつつ話は幕を閉じます。
12 番外編「ロングキスフローズンナイト」「寝覚めのいい夢」
この漫画を恐ろしいと思う理由の1つが、悪事を重ねて逃避行に出た2人だが、1人は死亡し・・・と言うような私たちの予想(期待?)を裏切って、悪事を重ねた2人が堂々とあっけらかんとハッピーエンドのような結末を迎える点です。
「ロングキスフローズンナイト」で八敷は、「コオリの女王」での佐伯の亡くなる間際の八敷への(心の中での)問いかけである「城は見つかったか?」に対して答える形で、「たぶん・・・城は見つかったよ」と独白します。その城とはもちろん鬼戸のことです。
「寝覚めのいい夢」では、鬼戸のこれまでの一連の経緯(と言うかこれまでの彼の人生)がたった4頁でまとめられてます。びっくりですね。
社会に適合しようとしてもがいていた彼が見つけた青い鳥、それは本当の自分であって、本当の自分として好きになった八敷。
13 まとめ
作者はあとがきにて、この話は「青い鳥」を描いた、と述べています。
主人公はどちらかと言うと鬼戸であり、社会に適合しようとして必死だった鬼戸が本当の自分という青い鳥を追い求める物語だと、私は解釈しています。
なお、青い鳥を追い求めたため、本当の自分は捨てたままで、死を選んでしまったのが佐伯です。
鬼戸の言う通り、八敷はある程度自分のまま、生きてはいたのでしょうが、彼もヤクザという組織の中に自分を適合させて生きている側面はあったでしょうね。
2人が必死に自分の居場所を探す様は、「人間らしく」読者の共感を誘いそうではありますが、彼らは基本的に「人でなし」であり、作中で平気で人は殺すし、他人は基本的に使い捨てです。特に女性に対する扱い・・・これは見てられない感じはしますね。私は、彼らの他人に対して全く共感性のない異常性と、それと矛盾するようなお互いに対する愛情・献身になんとも言い難い恐怖を感じました。
理解できないものに対する恐怖。しかし人間は理解できないものを排除しようとします。私たちは、生まれつき社会に適合することが難しい人たちを「異常者」であると断罪しますが、私たち多数派が「普通」であるということは私たちが決めていることであって、どちらが「異常」かなんて決められないのかもしれません。
警察内部の腐敗なども描かれたりしており、一概に社会=正義であるといえない、とも感じさせられます。人類の歴史の中で、戦争や虐殺などは常に「正義」の名の下に行われるものです。ほとんどの場合、「悪事」を「悪」と認識しつつ遂行する人はいないと言います。
しかし、やはり人間という生き物が基本的には何からしらの大きさの集団で生きざるを得ない生き物である以上、その社会という集団を多少なりとも折り合いをつけざるを得ないし、他人への共感という感情がなければ人類は簡単に滅びると、私はそう思います。共感性に欠ける人々のために犠牲になるのがほとんどの場合は子供、女性など・・・社会的弱者であることも、懸念しています。
でも、これは「私の論理」であり、バシコフの言葉を借りると私の「美学」に過ぎないのではないか、そんな、これまで自分が信じてきた美学がまるで若造の青臭い理想論だったかのように、崩れそうになる、そんな恐怖と衝撃の作品でした。
ところで、思想的なことは別として、一つの作品として非常に完成された、詩的で示唆的な、稀に見るBL漫画でした。
読者を次々と驚かせる構成、不要な説明を一切省いたスピード感のあるストーリー、生々しいキャラクター描写、感情を見事に表現する表情の描き方、理性など一欠片もない彼らの性行為の迫力ある描写、これら全て、素晴らしかったです。